ちょっと山城に (正規運用版)

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小栗城 (茨城県 筑西市)

小栗城
 
訪問 2013年 5月
 
引き続き今年のGWに訪問した城郭の紹介をします。
 この小栗城は 「関東の名城を歩く北関東編」 にも掲載されてまして、小ぶりながら複雑で厳重な縄張りに興味を持ち訪城した次第。
 
 冒頭で結論を書いてしまいますが、訪城したここの評価は5プラスα 個人的には大発見をした気分でした。
大規模城郭ではありませんが、とにもかくにも技巧的な縄張りに圧倒されました。
 
イメージ 1
   小栗城 空堀
 
 所で この小栗城の歴史が判然としないようです。
 現地案内板や資料にしても 桓武平氏小栗氏の統治と築城は述べられていますが 1423年8月2日 足利持氏により落城 小栗満重自殺するとありますが、その後城の経緯が曖昧です。
 
 前述の 「関東の名城を歩く北関東編」 によれば結城氏によって戦国末期まで国境の城として用いられていたようです。
 
 
 
 

 

 場所は上の地図参照でお願いします。
 
 立地としては、東方から関東平野へ向かって延びる尾根の末端に位置する半独立丘陵を利用して城は築かれています。
 
 山地南東側に微高地があり古い集落となっています。
 南・西方は現在水田となっていますが恐らく当時は氾濫原か低湿地、北方は小貝川に接し対岸は下野の国という国境の城になります。
 
城の概要としては 尾根続きとなる東側からの備えを主軸とした防禦形態をとっています。
 
イメージ 2
 
小栗城へは東隣に位置する 内外大神宮を目指すのが
無難です。
 
 神宮脇には石碑による
案内があります。
 
 石碑前に車を数台停められるスペースがありました。
 
 
 
 
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集落を数百メートル進むと、こちらも新しい石碑がありここからが小栗城という事になるのでしょう。
 
 
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 石碑脇にある現地縄張り図・・右下の「現在位置」は最初の石碑の辺りで実際の位置は公園の左手辺りかと。
 
 ここで ちょっと困ったのが、この縄張り図・・最近作成された割には頗る大雑把過ぎ・・・訪城すればすぐ分かりますが、はっきり言ってかなり違うんです。
 
 そこで・・・
イメージ 27
初めて 著名な城郭サイトの縄張り図を借用させて頂きます。
 出典元は ご存じ 「余呉くんのお城のページ」 です。
いつもお世話になります!
 
 以下 図に振ってある番号に準拠して画像を紹介します。
 
 
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先ほどの城碑を過ぎると早速空堀が現れます。
 これは縄張り図11番の空堀で 東側に続く尾根と小栗城を断ち切る役割を果たしています。
 とにかく真っすぐに南北に伸びてます。
 
イメージ 29
東側 内外大神宮側から見た11番空堀
 こちら側の方が比高はかなり高くなっています。
 
 
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11番堀を北端まで進み 振り返って撮影。
 画像の左端が内外大神宮側で、右側に向かって・空堀・土塁・自然地形の谷地となっています。
 
 撮影ポイントで 土塁は途切れ城内側への導入部となっています。
 縄張り図№では9番付近です。
 
 
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 9番付近には 小栗城と周辺史跡に関する資料が用意されていました。
 
 この時 丁度これを設置された小栗城跡の管理をされている地元の方とお会いできまして、色々お話を伺う事が出来ました。
 
 貴重なお話有難うございます。 下草の伐採も定期的にされているとの事で頭が下がる思いでした。
 
 ちなみに 資料台を置いた直後に訪れたようで、記帳第一号の栄誉を与りました。
記帳の一番上に書かれている名前が黒鍬こと○○です(笑)
 
 
イメージ 3
先ほどの 資料台から小栗城側を撮影
 谷地を経た自然丘陵を利用して築かれています。
谷地にも地形に手を入れた形跡が残されていました。
 
 
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遊歩道に沿って城に取り付きます。
 等高線に沿って巡らされている土塁線の切れ目(虎口)に遊歩道が伸びています
 
 
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前述の虎口を登ると腰廓になります。 右手一段高くもうひとつ上の腰廓に続いています。
 
イメージ 6
右手には行かず左手(南に下る)にしばらく進み振り返って撮影。
 画像左手側が小栗城中核方面、腰廓は中央土塁を挟んだ堀底道状になりながら南端まで続いています。
 番号では№6に該当
 
 
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同地点より 南側を撮影。
 ここで 堀底道は大きく折れて視界を遮断しています。
 この辺りの空堀の規模は深さ4メートル位あり、相当大がかりな物となっています。
 
 
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違うアングルから撮影。
 
 
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土塁面にあった階段を登ります。
 道は登りながら途中で右に折れて進んでいます。 
 正面には土塁が巡らされて防禦も大変厳重であった様子がうかがえます。
 
 
イメージ 10
登りきると 比較的広い廓に出ました。
 №5に該当します。
 図では5と6はほぼ等しく描かれていますが5の方が幅広の本格的な廓でした。 
それに北側には5と6の間の5,5廓? または6内部で段差があった記憶があります。
 
 
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№5の廓北端から臨む小貝川
 当時もこんな湿地帯だったのでしょうね。
 河畔からの攻略はちょっと難しそうに思えました。
 
 
イメージ 12
№5の北端から更に上の廓を目指します。
 
 
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登りきった所で撮影。
 正面奥の切岸は本廓になります。
 撮影ポイント左手は土塁、その奥が№4の腰廓(堀底道?) になります。
 
 
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№4を南に下ります。
 
№11の空堀を入れると 北→№6南→№5北→№4南へと 本廓へ至る道のりは迂回ばかりです。
 
 
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ようやく本廓に到着
 北・東側に土塁が巡らされていた記憶があります。
 それなりの広さがあります。
 
 
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本廓北端にある矢倉跡と言われる四角い土塁。
 縄張り図にも四角く描かれていますが・・どうもこれ升型虎口に見えるのですが・・・四角い土盛りにしては中央部がすり鉢状に凹んでますし・・・
 
 
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本廓 北側土塁の様子。
高さは1メートル程度でそれほどの規模ではありませんでした。
 
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本廓南側鉄塔付近の様子
 
この辺りは改変されていそうです
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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更に一段下って№7辺りの廓の様子。
 5月ですが既に雑草の繁殖が激しくこれ以上南側の探索は断念しました。
 
ただ 先ほどの管理されてる方のお話では、小栗城の南側は戦後の食糧難の際畑として利用されていたとの事。
 従って、耕作により地形は改変された可能性が高いと思われます。
 
 
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鉄塔付近から土橋で№5の廓におります。
 土橋右側は№7の空堀になります。
 
 
イメージ 21
土橋から№7の空堀を撮影
 7の堀底から城内を目指しても ここの土橋前で立ち往生する仕組みですね。
 
 
イメージ 22
先程の№7の堀画像の左端に位置する細長い小廓。
 廓を挟んで画像右手が№7の空堀で、左手が行く時に登った№6廓から№5に上がる坂虎口。
 
 ごぼうの様に細長く伸びて、廓の先端は土塁と堀切で断ち切られていました。
 堀底・坂虎口 両側を睨む射撃陣地として実に効果的な位置に思えました。
 
 
イメージ 24
最後に 小栗城遠景です
 城南側の農道より撮影。
 
イメージ 25
振り返ると こんな感じ。
 
 実に広々して地平線彼方まで平坦地です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 小栗城の評価は 5 とさせて下さい
 
 個人的には最近一番のお気に入り城郭です。