ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

黒羽城 (栃木県 大田原市)

黒羽城
 
訪問 2013年 8月
 
 珍しく最近の?訪問記録をアップしたいと思います。
黒羽(クロバネ)城は、中世城郭を中心に取り上げきた拙ブログとしては珍しく廃藩置県まで黒羽藩の陣屋として機能してきた城郭遺構になります。
 
イメージ 1
本丸南側の空堀
 
 
 

 

 現地案内板より
黒羽城跡について

◇黒羽城は、那珂川とその支流松葉川との間の丘陵部に構築された複廓居館型の山城であり、黒羽藩主大関氏(外様大名・1万8千石)の本拠であった。
その規模は、南北1,500m・東西250m、面積37,5haで、栃木県北部では最大である。
本城を本拠に定めたのは、戦国武将大関高増であり、高増は、戦国争乱の深まりの中で、天正4年(1576)、白旗城から黒羽城に移った。
-中略-

wikipediaより大関氏に関して抜粋
桓武平氏大掾流小栗氏の子孫と称したが、後世の仮冒の可能性が高く、   実際は出自は武蔵七党丹党流の出身という。下野の那須氏の家臣として   上那須地方に拠り、那須七党と呼ばれる存在となった。

◇慶長5年(1560)の関ヶ原戦に際し、黒羽城主大関資増(高増子息)は、他の那須衆と同様に、徳川氏に味方して、黒羽城に於いて上杉景勝の動きに備えていた。      
-中略-
◇その後、大関氏は、一度の改易・転封もなく、明治4年廃藩置県まで黒羽城を本拠とし続けたのである。
これは、関東の外様大名としては、大田原氏と共に極めて異例の事であった。
以下略
 大関氏の歴史は古く南北朝時代まで遡れるそうです。
栄枯盛衰・浮き沈みの激しい戦国を生き残り、更に徳川幕府によるお家お取り潰しをも逃れ、よくぞ父祖の地で明治を迎えられたと・言った所でしょうか。
 
 所で今回は、現地縄張り図が見当たらなった為、分かりやすい縄張り図を用意出来ませんでした。
 地図で大方の見当はつくかと思いますが、河川合流地に接した鋭角的な大地を利用して城は築かれています。 
 北側が大地続きとなっており、本廓を中心として南北に空堀を隔てて幾つかの廓が連続する縄張りです。
 又 本廓付近には東西にも廓が設けれ、本廓への敵の接近を阻む構えです。
 
 
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本廓脇を掠めるように車道が南北に縦貫しております。
 その道を南端側から登りますとやがて見えてくるのが、ここの土塁。
 
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 正面から撮りました・
 
土塁は道と直角に交差していたので、本来はこの辺りに門でもあったのかも知れません。
 
 
 
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暫く進んで振り返り撮影。 
 藪が深すぎて何も確認できませんでした。 ただ何となく土塁の上のような気がします。
 
 
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 先の道を更に少し進む
と大きな駐車場が完備されていました。
 
 ガラガラ・・
でも綺麗なトイレ付が有難い。
 
 
 
 
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駐車場の敷地は、廓跡をそのまま転用したようで、周囲には見事な土塁が残されています。
 
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車道を挟んで対面が本廓なので 早速向かいます。
 黒羽城は江戸時代は陣屋扱いをされていたとは言え、この辺りの空堀はまさしく中世城郭そのもの。
 
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外から見るとこんな感じです。 土塁のスケールが凄まじい・・・
 
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手前側が更地なので、よーく見渡せます。
 
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前後しましたが、 空堀にはこのような橋が掛けられています。
 この手前には 大型の升形虎口があるのですが・・・大きすぎて土塁の藪しか映らず掲載出来ませんでした。
 デジタル一眼が欲しい・・
 
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橋を渡った先に控える2度目の升形虎口です。
 今度は辛うじて被写体を捉えられました? 左手に進むと本廓内部に至ります。
 それにしても周到な構えです。
 
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本廓周囲は土塁で囲まれており、今は芝生広場となっている中心部も往時は御殿が建てられていたそうです。
 
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いつも思うのですが、 どうしてこんな迷路のような間取りに仕上げるのか・・・
 
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土塁上から本廓内部を撮影。 夏の日差しが懐かしい・・・
 
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西側(那珂川)方面はは土塁も含めて復元整備中の様でした。
 左下の廓との高低差はかなりあります。
 
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土塁線上は眺望抜群でした。 ただし遮るものがないので とにかくここは暑い。
 
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空堀を挟んで本廓の南側に隣接する2廓に移動します。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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ここの堀の規模は圧巻でした。 堀底道は車が通れる幅がありますので深さは10メートルは超えるでしょう。
 
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2廓内部は ごくごく普通の公園となっていますが、より南側に隣接する3廓方面には土塁が巡らしてあります。
 広さは本廓と比べれば大変コンパクト。
 
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2廓土塁面上から3廓方面を撮影。
 下で横断する石畳の道は堀底道です。
正面奥は、3廓にある芭蕉の館。建物の下をくぐるちょっと面白い仕掛けです。
 
 松尾芭蕉奥の細道の行脚の途中、この黒羽城3廓にあった門人の城代家老浄法寺高勝屋敷に逗留し、句を詠んだ事に因んでいるそうです。
 
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同 堀底道を城西側より撮影。
 左手が2廓・右手が3廓の切岸です。
 
 
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ぐるりと迂回して、本廓~2廓間の堀底に降りました。
 東側の一部には水を湛えていた名残なのか、このような湿地帯がありました。
 
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先ほど2廓へ行く時に利用した橋を堀底から撮影。
 たっぷり深い空堀を堪能しました。
 
 

 黒羽城の評価は 4 とさせて下さい。
 
一部道路によって破壊されていますが、縄張りの主要部は綺麗に残されています。
 また 行政も整備に積極的な様子も窺えます。
 巨大な空堀・升形虎口等見どころも多くお勧めの城郭です。