逆井城
訪問 2021年 8月
案内板 あり
駐車場 あり
逆井城は、土の中世城郭の中では知名度が高いのでご存じの方も多いでしょう。
城が現役であった頃の中世城郭風の建築物が建てられており、戦国時代の城郭を訪問した気になれる史跡公園として整備されています。
今でこそ、史実に合わせた復元が一般的になりつつありますが、城郭の復元となれば
「天守閣だ! 観光資源だ!」となりがちな中、この復元事業はまさに英断と個人的には思ってます。
城めぐりを始めた2010年頃は、様々な城郭書籍でも紹介されてましたので早速訪問して拙ブログでも紹介した記憶があります。
今回は11年振りの再訪となります。
当時ほど書籍などに登場する機会がないようにも思えますが、今回は復元建築物に隠れがちな当時の遺構と縄張りも堪能しようと再訪した次第です。
逆井城 2廓内の復元井楼櫓
逆井城の歴史については、現地案内板の内容を抜粋して紹介します。
逆井城の歴史
逆井城は、飯沼に臨む標高20mの台地先端にあり、城の北側は飯沼が洗い、西側は入江の蓮沼に接していました。
飯沼は江戸時代の新田開発により湖水はなくなりましたが、およそ幅1㎞・南北30㎞にわたり、その名残を残しています。
今から約410年前の戦国時代にこの飯沼が小田原の後北条氏と佐竹氏・結城氏・多賀谷氏らの領国の境目でした。
侵攻を続ける後北条氏は飯沼に築城をはじめ、天正5年(1577年)10月、北条氏繁(玉縄城主)は、藤沢より城の建物を作るために大鋸引きの職人を呼んでいます。
城主になった氏繁は、盛んに佐竹・下妻方面の動勢を報告していますが、翌天正6年(1578年)にこの飯沼城中で没し、その後氏舜が城主となりました。
請謁ながら若干の補足です
大鋸引きとは
板を制作する職人ですね、電動工具のない時代は制作に手間がかかり板材は高級品です。
蛇足ですが、柱材のような部材については、現在でいうプレカット材のような規格製品が既に出回っていたと聞いきますので、板材だけはオーダー製品扱いだったのでしょうかね?
城名が途中から変わってます
「逆井城の歴史」と始まりながら、途中で城名が「飯沼城」に変わっており、さらにその説明が一切ない・・
実は、逆井城の別称が飯沼城です。
地元の伝承が途絶えた城跡は、当時なんと呼んでいたか最早分かりようもなく、逆井城(飯沼城)の呼称についても文献資料に登場する城との同定が困難な一例でしょう。
場所はいつものようにグーグル先生にお任せ。
このあたり
最寄り駅と呼べる駅がなく、車以外での訪問はかなり大変かもしれません。
もしかしたらバスがあるのかな? ちょっとよく分かりませんが・・
さて、現地の縄張り図を掲載します。
屏風絵風な雲の演出で若干縄張り図としては判り難い。
そこで簡単に縄張りを説明します。
逆井城の立地は、
北に飯沼(現在は水田)西は入江状の地形と、北・西2方向を天然の要害地形を利用して築かれています。
逆井城の縄張りは、
飯沼に面した城北辺に主廓を配し、主廓の西・南・東側の3方を2廓が囲み、2廓東側の台地続きの部分の推定3廓が配されていたと推測されています。
また主廓南側正面には角馬出しと思しき空堀も残されています。
縄張りの特徴は、
主廓とその周囲の2廓を中心に構成され比較的シンプルな構成ながら、一方で各廓は広い面積が確保されており、駐屯地としての機能に重きを置いた縄張りと推測され後北条氏の北関東方面への橋頭保として利用されたと推測されます。
遺構の現状は、
主廓内部と主廓空堀についてはほぼ手つかずの状態で保存されています。
主廓角馬出しは復元整備がなされています。
2廓空堀については、大規模な復元土木工事が施されており、南側は併せて当時の雰囲気を重視した推定建築物が建てられ、西側は土塁線の土木工事のみが施工されています。
2廓東側は、簡易的に土塁と空堀の復元がなされますが、一部当時のままの土塁も残されています。
2廓南東側は一部私有地があり遺構は隠滅しており、城の端部については不明瞭になっています。
2廓内部は、地域に残る古い建築物が多く移築展示されています。
結局 前置きが長くなりましたが早速参りましょう。
逆井城と言えばこのアングルの写真が多いでしょうね。
井楼櫓と土塀に水草の茂る水堀が逆井城が現役であった頃を彷彿とします(見たことないですが・・)
井楼櫓は推定で整備したようですが、いい味出してますね。
まずは2廓外側から復元整備エリアを見て回ることにします。
近世城郭とは明らかに異なる無骨さを再現してます。
お城 = 白亜の天守閣
という一般的な先入観に流されずに、遺構の歴史に合わせた復元の試みには素直に評価したい気持ちです。
同じ関東圏でも、遺構を全て破壊し根拠不明な模擬天守を建てた残念な例もあるので余計に強く感じられます。
こちらは残念な例 ↓
歴史的負動産に興味があればご笑納ください。
さて、こちらは少し離れて2廓を西側から撮影した所。
手前の臨時の駐車場と思しき空き地は2廓より一段低い低地になっています。
隣接した耕作地も周囲より地形が一段下がっており、往時は天然の水堀の役割を果たしていたと推定します。
この辺りが蓮沼と呼ばれていた入江でしょう。
グーグル先生に青線を引いて低地部分を分かり易くしてみました。
逆井城は、東側以外の3方を天然の水堀(低地)によって守られた地形に築かれていたことが分ります。
2廓西側の低地を引きのアングルで撮影。
水堀と考えれば破格の堀幅ですね。
そのまま外縁部を進み、城の北側旧飯沼側から逆井城を撮影。
飯沼は現在一面の水田地帯になっています。
こちらは2廓北西端にある虎口の様子。
この辺りの土塁は復元土塁と推定。
虎口から2廓内部に入ります。
土塁線に沿って南に進みます。
櫓台と思しき土塁の張り出し部まで整備されてます。
この辺りの土塁も復元整備されたものでしょう、或いは元の土塁の保護目的で土を被せているのかもしれませんが。
土塀の復元エリアまで来ました。
足元はコンクリ基礎の上に建てられているのが分ります。
歴史的には土に穴を空けて柱を直接差し込む「掘っ建て式」が正解かと思われますが、柱がすぐ腐るのでやむを得ない措置でしょう。
倒れてきたら管理責任を問われかねないですしね。
井楼櫓は老朽化?の為か登れませんでした。
木製復元物の維持管理は財政的に深刻な問題かも。
塀の開口部(狭間)は、やや広め。
銃器の普及前の想定でしょうかね。
大手門? の方まで歩いてきました。
正面の櫓は復元建築物で現地の案内板の解説を掲載します。
二層櫓
この二層櫓は、戦国時代末期の時代背景を基に、外観二層の容姿を持つ戦国期の櫓を復元したものです。
近世の隅櫓ではない時代を感じる櫓として、6m四方の平面を持ち、入母屋の望楼に下見板張りなどの外壁によって当時の景観を再現しています。
大手でいいんですよね きっと。
いい感じです。
中世城郭の雰囲気を醸し出しつつも、現代の建築基準をパスするのは容易ではないと思われます。
こちらは2廓内部の様子。
広めの都市公園の様相があると思えば
移築建築物も展示されてます。
こちらは
関宿城門
関宿城の城門と言い伝えられているこの門は、本柱が門の中心線上から前方にずれている薬医門と呼ばれるものです。
関宿城は久世氏が城主を務めていましたが、明治2年の廃藩置県により久世氏は関宿知藩事となり、城も明治6年に大蔵省の所管となって廃城となりました。
その後、建物の一部は民間に払い下げられ、残りの建物は取り壊されてしまいました。
この時に払い下げられてものの一つがこの城門と伝えられ、町内の鶴見栄助氏宅にあったものを移築しています。
こちらも同じく移築建築物。
この観音堂は大安寺(岩井市)にあったものを町が譲り受け、移築・復元しました。
天正16年(1588)建立時の棟札と弘化2年(1845)再興時の棟札が現存しています。
これにより、天正16年の上棟後、幕末に改造の手が加えられたことが判明しています。
しかし、木柄の大きな角柱の面取り、船肘木などはいずれも天正期特有の様式をよく残していますので、非常に貴重な建築物として町指定の文化財となっています。
堂内は板敷きで、天井は竿縁天井となっています。
こちらは、主廓の南面にある角馬出しの復元遺構。
更に奥には、主廓を守る空堀の遺構が控えています。
この辺りは、復元整備がなされていない、当時そのままの遺構。
堀底は堆積物で浅くなってますが、対岸の土塁の高さや堀幅は復元部分にはない迫力を感じます。
堀底には一部水たまり(湧水か?)があります。
形状的には堀底の畝部分に水が溜まっていると思われますがこちらにも伝承があるようです。
鐘堀池
天正5年(1536)3月3日、時の逆井城主逆井常繁は、北条氏康方の大道寺駿河守の城攻めに敗れ戦死しました。
この時、城主の奥方(娘か)は先祖代々伝わる釣鐘をかぶってこの池に飛び込み、自殺したといわれています。
この釣鐘を捜そうと何人もの人が池を掘った為「鐘掘池」とか「鐘掘井戸」と呼ばれています。
この池はどんな日照りでも水が枯れた事がないと言われるほど、湧水が豊かです。
城の生活水を賄うために掘られたのではないかと考えられています。
落城の折りの奥方か姫様の悲劇は、あちこちのお城にありますが・・・どうなんでしょうね?
個人的に、たいていの悲劇は後世の創作じゃないかと
こちらは主廓東側に架けられた復元の橋と櫓門。
櫓門と橋
この櫓門と橋は逆井城跡の発掘調査の成果を基に復元されています。
橋の遺構は礎石・男柱・支柱の柱穴、柱桁支柱の穴が見つかっています。
また、櫓門の遺構としては、東西に3個づつ2列で方形に結べる柱穴と雨後溝が見つかっています。
復元にあたっては遺構保存のため、旧柱位置より西へ1m、北へ50㎝ずらされています。
なお形については、史料を基に戦国時代末期の姿を想定しています。
城門については、掘っ建て式ならば復元建築物より実際はもっと簡素な物であった可能性が高いように思えます。
引きのアングルでもう一枚。
往時の堀底はもっと深いはずなので、橋がなければ往来は困難であったでしょうね。
再び2廓に戻ります。
こちらは2廓の東側の空堀と土塁。
膝の高さ程度の変わった土塁が巡らされていますが、ここは完全に復元土塁でしょう。
推測ですが
廃城後に2廓は耕作地化され、作業に邪魔な土塁は崩され空堀は埋められ遺構は一旦消滅。
逆井城が整備される折りに、土塁線と空堀の再現を試みたが、コスト的に縮小した規模で再現。
そんな所ではないでしょうか。
土塁線の土が柔らかく、また形状も角がしっかり出ている点などからも
復元土塁と空堀でしょう。
この辺りは当時のオリジナル空堀と土塁と推定。
さっきとかなり違って見えると思いますが同じ2廓東側のラインです。
土塁の高さは今でも人の背丈ほどあります。
復元部分とは全く違いますよね。
オリジナル空堀と土塁は足元で唐突に隠滅しています。
画像背後は私有地なので復元もできそうもないですね。
こちらは おまけ です。
2廓東側にあった と推測されている3廓の遺構らきものがないかを探ります。
東側は唯一台地続きなので、3廓を設けて防備の強化を図っていても不思議ではありません。
北側の川沿いを見ていきます。
切岸のような地形の段差が川に沿って続きますが、遺構とは言い切れないような・・・
これは、逆井城にあやかってますね。
この段差は?
なんでも遺構に見える病 による幻覚か??
結局よく分かりませんでした、遺構は畑の下に眠っているのかもしれません。
逆井城の評価は 4 とさせて下さい。
11年振りの訪問でしたが、やっぱりいいですね逆井城。
真夏の訪問ながら、暑さを忘れるくらいに回ってしまいました。
復元建築物については賛否もあるかと思いますが、城に興味のない人への中世城郭の説明には最適と感じました。
最後に、逆井城跡公園のリンクを貼っておきます。
詳細な縄張図も掲載されています。
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