小幡城
訪城 2013年1月
前回掲載の下小池城も見ごたえのある城郭でしたが、本来茨城に遠征した目的は今回の小幡城を訪れる事でした。
茨城県屈指、もとい東日本でも有数の規模を誇る中世城郭と聞いていましたが、都内からでは便が悪く(地元の方スイマセン・・)この時、ようやく念願の小幡城を見ることが出来ました。
結論から言うと、空堀を中心とした遺構は想像以上に素晴しく、 また外郭部が一部高速道路建設によって破壊されていますが、それ以外はほぼ当時のままの状態に残されており、 これ程のものが一般的には何故無名に近いのかと疑問に感じる程でした。
小幡城 6の廓空堀
場所と地形は下の地図を参照して下さい。
立地は前回の下小池城と似ており、 西を除く3方を低地に囲まれた台地上に築かれています。
この辺り、どことなく北海道じみた広大な景観でして、 どこまでも畑と雑木林が続くような景色が続きます。
現地 縄張り図を掲載
台地続きの6の廓方面の空堀と、本丸周辺の空堀は、現在右上に1カ所土塁の切れ目があり繋がっていますが、どうもこれは後世切られた様なので、 当時はこの外郭部の空堀を走り回っても内部に侵入できない構造だったようです。
右上の緑の縁に沿って車を進めています。
左手の田んぼは旧湿地帯として水堀の役割を果していたように思えました。
立ち寄ってませんが
向かいの香取神社
小幡城との何か所縁が
ありそうな気も・・
ここから城内へ、 2本ある堀底の外部側になります。
早速見事な堀が・・
右手案内板に城の解説がありましたので下に引用します。
町指定文化財
小幡(オバタ)城跡
小幡城は、大掾(ダイジョウ)詮幹の三男義幹が室町時代(1420年頃)に築いたという説と、 小田知重の三男光重が鎌倉時代(1220年頃)に築いたという2説がある。
文明年間(1481年頃)以後は、水戸城の江戸氏の影響下に入る。
現在の城域約12haが整備されたのは、元亀天正年間(1570年代)と思われ、 府中城の大掾氏を攻める拠点として需要な役割を果たしている。
天正13年(1585年)の書状には小幡城将として大塚弥三郎と小幡孫二郎の名が見える。
この頃、城の守りを強化する為、涸沼周辺の土豪が当番制で動員されている。
天正18年(1590年)12月 豊臣秀吉の権力を背景にした太田城(常陸太田市)の佐竹義宣により、水戸城の江戸氏は城を奪われ 府中城の大掾氏は滅亡し、 この時小幡城も落城した。
その後、小幡城は佐竹氏の秋田移封(1602年)まで佐竹義宣の直轄地となり、家臣の和田昭為が管理している。
以下略
基本的には堀底巡りが多いのが小幡城です。
赤い矢印看板で行き先案内があちこちにあります。
何と親切な と思っていたのですが・・実際これがないと迷子になります!
1の廓廻りの空堀
場所は忘れましたが・・同じく堀底より撮影。
堀は深く鋭く しかも折れが多用されており、見通しが効かない構造でした。
本丸周辺と思いますが・・本丸は変形の5角形でこれが方向感覚をおかしな事にさせるようです。
同じく本丸周囲の様子と記憶してます。
やはり 折れの為に先の様子が解りません。
これは、右手が4の廓・空堀を挟んで左手が本丸です。
4郭内のお稲荷さんは一段高くなっていました
こちらは本丸内部の様子。
下草が刈られているのは本丸のみ・・他の廓は冬場でもかなりの藪状態でした。
本丸内に残る井戸跡・ 井戸後方は本丸をグルリと囲む土塁です。
土塁の高さは2メートル位でしょうか。
武者走り側から撮影。
奥が5の廓撮影ポイント
5の廓からは土橋を渡って
結節点へ向かうことになります。
変形武者走り自体もかなり
変わった造りなっていて
幅は本当に狭いながら両側に土塁を巡らせてあります。
6の廓側の堀底から見上げる限りは、ごぼうのような細長い廓でとは全く想像が付きません。
ここは他の廓や本丸へも通じていない袋小路なので、寄せての攻撃をここに誘導させる意図がある様に思えてなりませんでした。
先ほどの櫓跡から別角度で本丸堀底を撮影。
堀底が蛇行している様子が解ると思います。
戻り際に撮影した堀底のどこかです・・・・どっちへ行けば帰れるのか
おまけにもう一枚
7郭の一部は
近年茨城空港へのアクセス用の高速道路によって
分断されてしまいました。
車・・走ってませんねぇ・・
この辺りの県道なら
信号もあまりないし交通量も少ないので・・高速のメリット
って余りないような気がします