ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

林城 (茨城県 鹿嶋市)

林城(外城)

 

訪問 2021年1月

 

駐車場 無し

案内板 有り(縄張り図無し)

 

 久しぶりの関東のお城です、それもザ関東平野の平城はいつ以来か・・

今回から茨城は鹿行地域のお城を2城紹介します。

 

 

林城 3郭空堀

 

 先ほどさりげなく鹿行と書きましたが

これで(ろっこう)と読むそうです。 

霞ケ浦東岸から太平洋に至る低地一帯を指すそうで

 鹿島行方(なめかた)を合わせて鹿行だそうです。

ちなみに行方も難読地名ですよね、

 

いつのもように、場所はグーグル先生にお任せ

 

 

と 言いたい所ですが

 

 今回は 地図に補足を加えます。

はい、これです。

 

赤丸が林城の位置を示します。

 

 

水域を示す青色が現実よりも増えてますね。

 

 埼玉の近くまで水没してますが、地球温暖化の予想図ではありません。

 

 さて これは何だと思われますか?

 

 

 実は、かつて関東平野東部に広がっていた広大な内海香取海の再現を試みたものです。

 

 林城が現役の頃は、一帯は内陸深くまで香取海が広がる水郷であり、重要な交通路として利用されてきました。

 

 その後、香取海は主に江戸時代以降の利根川東遷による土砂堆積効果や干拓事業によって消滅していきます。

 現在残る霞ケ浦・北浦・印旛沼等の淡水湖はその香取海の名残と呼んでいいでしょう。

 

 さて、林城付近を拡大すると、当時は香取海に繋がる入り江に面していた事が推測できます。

 

 このように、城郭の立地を考える上で、香取海の海岸線を念頭に入れると現在とは全く違った光景が想像(妄想・・)できる訳です。

 

 ちなみこの地図、本来は水面を5m上昇させた時の水没範囲を示してます。

 5mの根拠はありません、あくまでも妄想なので

 

 拙ブログのリンク覧にもある FLOOD  MAPS

これで、水面の高さを変えて世界中を水没させて遊ぶ事ができます。

 

ja.wikipedia.org

 

またしてもウンチクが長くなったので

 この辺りで林城に行きましょう。

入口はここ。
FLOOD MAPSでは水没している林城の北側です。

 現在の林城は、低地に突き出した舌状台地上にあります。

 

 背後は道路工事中です。

正月休みのため休工中で砂利道に車を停められましたが、今は変わっているでしょうね。

 

現地に適当な縄張り図がないため

又しても余湖くんのホームページから縄張り図を借用します。

 縄張り図の上端からⅡ郭に沿って歩きⅠⅡ郭とⅢ郭を隔てる巨大空堀を目指します。

 

縄張り的には、いかにもチバラギ的な感じがします。

  利根川を挟んだ千葉側に残る坂田城との類似性を感じますが、同じような舌状台地を利用しながら若干縄張のコンセプトが異なっている点も興味深い。

kurokuwa.hatenablog.com

 

入口を過ぎ段丘面を登ります。

 太平洋が近いからなのか、冬でも落葉しない植生が温暖な気候を想像させます。

 

ほどなく現れる林権現の鳥居。

 鳥居をくぐって参道を直登するとⅠ郭の虎口にある祠に至りますが、焦らずに遠回りして林城を堪能します。

 

鳥居の脇に設置されている案内板。

 

下に書き写しましたので興味のある方はご一読を 

 

 

市指定文化財 史跡

 

林城(はやしじょうあと)

 

鹿嶋市大字林1138他

昭和57年9月6日指定

 

 

 林城は、常陸大掾氏の一族、鹿島頼幹(かしまよりもと)が林六郎左衛門と称し、この地に城を構えてからその子孫の居城であった。

 

 林氏菩提寺である瑞雲寺の記録によれば、林氏は戦国時代に林・青塚・奈良毛・角折・志崎などの地を領有して勢力を伸ばし「桂山林公」と呼ばれた。

 

 しかし、城主林時国(はやしときくに)が佐竹氏の招きに応じて太田へ向かう途中、鉾田市)の渡し場で家臣に殺害され、その後の天正19(1591)年、鹿行の三十三館と共に城は廃された。

 

 林城は、城主の居住域である中城と、城山と呼ばれる外城からなっている。

 

 外城は、三方を谷に囲まれ、天然の地形を巧みに利用した堅固な城構えである。

 堀は深く土塁は高く、今なお当時の城の様相をそのまま残している。

 

 

補足ですが、今回の訪問は、林外城です、林中城は未訪城です。

 

 

背後のⅠ郭切岸面。

 絶壁に近い傾斜は理解できるのですが、ほぼジャングルですね・・辛うじて高低差は伝わるでしょうか。

 

道はⅡ郭を回り込んで

Ⅰ郭Ⅱ郭Ⅲ郭を隔てる長大な空堀に向かいます。

 

こちらが長大な空堀の堀底。

 Ⅰ郭Ⅱ郭を1セットで主郭とするなら、この空堀が外郭(Ⅲ郭)を隔てる最終防衛線と言えるでしょう。

 

しばし堀底を進みます。堀底はフラットで箱堀と推定。

 ほぼ一直線に延びてますが、最奥部に折れのような張り出しがあります。

 

Ⅱ郭側から空堀を挟んでⅢ郭坂虎口方向を撮影。

 堀底からスロープ状に登る坂虎口ですが、これは後世の造作にも思えます。

 

 

坂虎口を登りⅢ郭側からⅡ郭方面を撮影。

 この空堀の規模だけでも林城に行く価値がありそうなほどの圧倒的迫力。

 

 しかし、Ⅱ郭Ⅲ郭を繋ぐ土橋は設けられず、郭間の相互の連絡よりも遮断を強く意識した縄張りで、土橋を中心に虎口と十字砲火を意識た坂田城とは明確に異なる点ですね。

 

 

 こちらはⅢ郭内部、 Ⅳ郭との空堀手間の土塁線を撮影した所。

 

折れを伴う高く長大な土塁線が続きます。

 

 

虎口から堀底に行けそうですね

 

 堀底は荒放題

とても進む気にはなないので引き返します。

 が、薬研堀のⅤ字形状が確認できました。

ⅠⅡ郭Ⅲ郭間の空堀は箱堀状でしたので明確に造りを変えてますね。

 

1郭Ⅱ郭Ⅲ郭を隔てる空堀まで戻りました。

 折角なので主郭部も見て帰りましょう。

 

こちらはⅡ郭からⅠ郭方向を撮影したと記憶。

 残念ながらⅠ郭Ⅱ郭を隔てていた土塁線が崩されているので現状は一つの郭に見えます。

 

Ⅱ郭側から撮影した残存土塁と空堀(手前)

Ⅰ郭側からも撮影。

 

カットしたかまぼこの断面みたいになってますが

辛うじて土塁線が続いていた事が分かります。

 

最後に、こちらは林権現の祠。

鳥居からⅠ郭へ直登すると虎口にあります。

 

 

林城の評価は 3 とさせて下さい。

 海岸線沿いの段丘崖面を利用した典型的な平城、城域は広大ですが郭数は少なく見学は容易です。

 ⅠⅡ郭Ⅲ郭間の巨大空堀が現状の最大の見所となるでしょう。

 しかし藪で隠れているⅢ郭Ⅳ郭間の空堀が見て回れるようになれば、林城の戦闘的な別の顔も見られるようになるかも知れません。

 

ここで妄想を一つ

 

 海岸線沿いの段丘面を利用した平城、湾や入り江の最奥部に面した平城。

 この条件、中世期の江戸城の立地と良く似ているような・・ 

 家康が本拠地を江戸としなければ、現在の東京は林城周囲と同じような光景であったかもしれません。