ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

坂田城 (千葉県 山武郡 横芝光町) 1

坂田城
 
訪問 2015年 5月
 
駐車場  無(隣接坂田池公園駐車可)
案内板  有
 
 珍しく頻繁な更新をします。
成東城の次は隣の横芝光町にある坂田城の紹介です。
 
 この坂田城、沖積平野に突き出すような細長い舌状台地に立地し、台地を堀で幾重にも遮断する関東平野ではよくありがちな土の城です。
 
 ですがここ、なかなか興味深い縄張りを持った城でして虎口前の両側からの横矢がかりや、無駄に??広々した謎の廓等、載せたい写真を整理してましたらあれもこれもと増えて、2回に分けて紹介する分量になってしまいました。
 
イメージ 1
                         坂田城 本廓虎口
 

 

 

 

 場所はこの辺りです。
車は隣接する坂田池公園に停められました。城のある台地周辺は一面の水田地帯です。
 城への侵入ルートは台地続きの北側という事なのでしょうね。
 
イメージ 2
 こちらが現地掲載の縄張り図です。 台地先端に本丸を配置し一直線に廓を配置するこの様な縄張りを「直線連廓式」といい、房総半島に多い造りだそうです。
 
外郭部に位置する外城部の広々さと、3廓になる登城への虎口部両側に控える櫓台がこの城の見所かと。
 
 では、この辺りで現地案内板の坂田城紹介を掲載します。
 
坂 田 城 跡

所在地 千葉県山武郡横芝町坂田字登城ほか
別称  市場城・城山
区分  中世城郭
形態  戦国期丘陵多廓式城郭

「沿革」
 伝承によると。14世紀の中頃、千葉氏によって築城されたと伝えられる。
 その後、千葉氏の重臣である三谷大膳亮胤興(信慈入道)の居城となり、長倉砦や小堤要害などの支城が整備された。
 
 弘治元年(1555)以降、大台城(芝山町)の井田因幡守友胤は、三谷氏の内紛に乗じて大膳亮胤興を討って、坂田城へ移ったとされる(山室譜伝記)。
 
 坂田城主となった井田氏は、千葉氏に仕えると共に、また小田原北条氏の被官として手勢300騎を擁して、東上総における典型的な戦国土豪であった。
 
 やがて、栗山川・高谷川の流域一帯に勢力を張り、関東各地に出陣した(井田文書)。
 天正18年(1590)4月、豊臣秀吉の小田原攻めの際、坂田城も追討軍の為に落城したと伝えられる。
  以下略
 手勢300騎の領主に坂田城の広大な外城部の敷地が果たして必要だったの?
という疑問は結構言われてるようですね、確かに訪れた際の第一印象は無駄に広いですねぇ~というのでした。
 
イメージ 3
では早速参りましょう。
車を公園に停めまして・・
 
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道路沿いに延びる丘陵地が坂田城です。
 手前の資材置き場横から城への道があります。
 
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整備されて大変登り易いです。
 
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縄張り図本丸左側の腰廓に到着します。
 右手は本丸土塁。
 
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本丸内の様子です。
散策路以外は全く踏みこめないブッシュ状態。
 
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隣の見台廓へ移動する手前でやっと本丸周囲の土塁が確認出来ます。
 
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本丸~見台間の土橋より本丸側を撮影。
 土橋を側面から睨むように土塁が張り出す凝った造り、保存状態も良いです。
 
イメージ 10
見台~登城間の空堀の様子。
 堀底は浅くなっていますが、側面射撃を意識した土塁の張り出しが分りますか?
 
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見台の虎口から登城内部を撮影。
 ここからは廓内部は畑になっていますので農作業の邪魔にならないように進みます。
 農道奥正面の並木が登城~外城を隔てる空堀の跡になります。
 
 
イメージ 13
縄張図に記載あった姫塚が気になり撮影しましたが、現地に全く説明がない為詳細は不明です。
 
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登城と外城を隔てる空堀手前まで来ました。 画像左手が虎口になります。
 まずは巨大な土塁を伴っている事に驚かされました。
 
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土橋を半ば渡った所で振り返って撮影。
 空堀と土塁には樹木が凄まじく繁殖しております。
 
イメージ 15
両側面から横矢を掛けるのを「相横矢」というそうですが、ここの虎口も両側に櫓台を配置して厳重な防禦体制をなしています。
 上の画像は土橋から撮影した 櫓台の筈ですよ。
 画像では全く分からないと思います、実際に目で見ても樹木で隠れて殆ど判りません。
 ここだけでも整備なんとかならないもんでしょうか?
 
坂田城2 に続きます。