ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

古宮城 (愛知県 新城市)1

古宮城

 

訪問 2019年5月

 

案内板 無し

 

駐車場 無し(路駐可能)

 

三河作手の訪問シリーズも4城目にして最終回です。

 今回は土の城マニア垂涎の城郭であり、続日本百名城にも選定されている古宮城(ふるみや城)の紹介になります。

 

 

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  古宮城 西城虎口より撮影

 

 

 もともと今回の三河遠征は古宮城の縄張を堪能するのが目的でした。

 夜中に東名高速を西進し途中仮眠だけをとり、作手に到着するや否や古宮城に直行

 隅から隅まで歩き、その都度写真を撮っていたら300枚を超えてました。 

 

 その古宮城、結論から言いますと、見事な縄張りと、良好な保存状態は期待の遥か上でした。

 交通の便は決して良い所ではありませんが、土の城マニアなら万難を排しても?訪問すべき城郭の一つでしょう。

 

 

 そんな古宮城ですが、ブログにまとめる段階で問題が発覚しました。

 訪問から既に2年半経過し(更新が遅いから・・)改めて300枚の写真を見ても・・・どこのどの土塁やら空堀やら全部同じに見えてしまうんですね。 

 

 そこで縄張り図を見返しながら何度も撮影順に写真を確認して、やっと記憶が蘇って来たように思えてきたので3回に分けて紹介します。

 まぁ解説と写真が合ってない可能性も否定できませんのでその辺りはご容赦願えればと思います。

 

 

さて、場所はいつものようにグーグル先生にお任せです

 

 

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 道案内は得意なグーグル先生も地形表示は比較的苦手になりますかね。

そこで国土地理院先生に再び登場してもらいます。

 

 古宮城は、塞之神城直下の小丘陵全体に縄張りを巡らせた丘城になります。

 

 周囲の地形は、塞之神城の稜線と繋がる西側を除く三方はいずれも水田になります。

 この水田は、当時湿地帯で人の侵入は困難であったと推定されます。

 

 よって唯一陸路で城へ取り付ける西側への備えが特に厳重、 と言いますかほぼ西にしか意識が向いてない思い切った縄張りじゃないですかね。

 

 その明確な指向性と言うんですかね、近世城郭では余り見かけない割り切りがいかにも「戦時急造型」の中世城郭らしく感じます。

 

 古宮城の歴史については、頂いたパンフレットの説明を以下に転記します。

 

 

古宮城(ふるみやじょう) 平山城・一城別郭式

 

 当城址は、甲斐の武田信玄三河進出の拠点とするため、宿将馬場美濃守信房に命じて元亀2年(1571)に築城したと伝えられている。

 城址は、南北200m、東西250mの独立した小山全体からなっている。

 当時は、南・東・北の三方が湿地で地続きは西側のみで、防禦の主眼は西側に置かれている。

 

 一歩城址に踏み入ると土塁と壕が縦横に入り組み複雑な曲輪配置が見られ、中央部が南北の竪堀状の大堀切で東西の2城に分けられた一城別郭式の城であった。

 

 東は守備の中心で主将の居る所、西は前衛として敵の攻撃を少しでも永く拒むための工夫が施された要害堅固な城であった。

 

 西城の本丸は、ほぼ正方形で、その東に2の丸が並び境として両端を空けた土塁があり、2の丸の東南隅と北側には虎口が設けられている。

 また、北側には5重の壕を擁して西側からの攻撃に備えている。

 

東城は、頂部において土橋で西城と繋がり、本丸に並んで2つの曲輪があり、その北部には多数の曲輪が見られる。

 本丸南側の両袖枡型虎口(内枡型)は、武田氏縄張りの特徴を良く伝えている。

 

 一部が社地等になっているが中世の城郭がほぼ完全に保存されているのは珍しい。

 

 全山余すところ無く塁郭を配置したこの城も天正元年(1573)8月奥平・徳川の連合軍の手によって落城した。

 

 

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さてさて、こちらは南側の水田から撮影した古宮城全景。

 

 よく整備された亀山城とは異なり城域は植林で覆われ外からではその遺構は全く窺えません。

 

 もっとも樹木は遺構に直接雨風が当たるのを防いでくれるので土の城にとってはありがたい存在。

 昨今の植栽を伐採して見学者の利便を図る動きは、結果的に遺構の風化を促進させる恐れがあり個人的には賛成しかねます。

 

 所で、車は鳥居の右手路肩に停めさせてもらいました。

何台もの県外車が同じく路駐してましたが・・亀山城程とはいかなくても駐車場が欲しい所ですね。

 

 

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こちらは振り返って亀山城を撮影した画像。 

やっぱり両城は近いですね。

 お互い何か企んでも丸見えでしょう。

 

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 こちらはお馴染み「作手歴史民俗資料館」で頂いた古宮城の縄張り図です。

 

 古宮城の持つ縄張の特徴としては、丘陵中央部を土橋1本残し、他は堀切を縦貫させて2つに分断させている点でしょう。

 この分断された両域は物理的にも役割的にも明確に違いがあります。 

 

 東側は「東城」と呼称される主郭を中心とした平坦地(駐屯地的な役割か?)であり、東端部の郭に至っては水田との高低差がなく、つまり丘陵の外側まで一部城域に取り込んでいます。

 

 一方で、西側は「西城」と呼称される巨大丸馬出ひとつを除いて丘陵地は全て幾重にも重なる空堀で潰し、敢えて城域を絞ってます。

  

 東西で全く別の城に訪問しているような奇妙な感じですね。

 

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 今回は赤ライン分の紹介で東側の外周を主に回ってます。

 

 

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 かな~り、無駄話が長くなりましたが古宮城の中に入りましょう。

 

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1 の神社からスタートです。

 神社付近は、後世の地形改変があったように思えますのでさらりと通過します。

 

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脇の石段を登ります。 これも古宮城現役時の登城ルートとは無関係でしょう。

 

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2 石段を登ると

「大ひのき」の案内があります。

大ヒノキは後で紹介しますが、東城(主郭)虎口にある見事なヒノキです。

 ですが、そのままヒノキを目指すと主郭でアッと言う間にゴールになるので、一旦右側に迂回する事にします。

 

 

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3 の辺り 土塁線の上を進みます。

 

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弧を描く、土塁と空堀に切岸の豪華3点セット。

 

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しつこくもう一枚。

 丸みを帯びた防衛ラインが好みなので・・

 

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更に東側(下段)に降ります。

元の丘陵地形の先端部分ですね。

 

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5 の辺りの平坦な郭群。 

 基本的には一つの大きな郭のようですが、間仕切り的な土塁によって幾つかの郭に区分けされてます。

 

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郭最東端の様子。

藪々写真ですが、2重の浅い横堀と低土塁が巡らせてあります。

 

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4 の辺りから方向を見上げて撮影・・

 撮影位置はあまり自信がありませんが。

 

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5 郭を隔てる間仕切り? 土塁。

 

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6 の辺りから主郭方向を見上げて撮影。

 緩斜面に段郭を重ねて平坦地が確保されてますが、結構斜面のままの所もあります。

 

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6 右手が縄張図の「北大竪濠」

 主郭方向に向かって撮影。

 中央の土塁は北大竪濠に沿って延びる東側の土塁線

 

 

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同6の地点から東側を撮影・・と思います。

 丘の緩斜面が結構そのままなのが分かるかと思います。

元の地形は全然険しくないですね。

 

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北大竪濠の堀底を進み東西を唯一繋ぐ土橋方面に移動します。

 堀底から土塁上までは目測でだいたい3~4m程度でしょうか。

 

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8 の「東城」の枡型虎口付近の様子です。

  桝内部は一段高くされてますね。

 所で、土塁上の巨木は案内板にあった「大ひのき」です。

大ヒノキ脇が虎口になります。

 

 

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大きすぎてカメラに収まりきれません。

 

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土塁上から撮影した「枡型」

 画像左手が「東城」郭内部で、大ヒノキ脇に土塁開口部(虎口)を設けてます。

 「枡型」への導入部は画像右下になり、枡型の出入り口で食い違いを生じさせ、一直線に突破されるのを防ぐ縄張りになっています。

 

 

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9 の辺り「東城」の張り出し部の様子。

 

 「北大竪濠」「土橋」、更に濠を挟んだ「西城」北側虎口付近に睨みを効かせる重要な張り出し部になります。

 

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同じ 9から撮影した「西城」郭の北側虎口へ至る土橋。

 

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イマイチ判り難いので線を引いてみました。

 手前の空堀「北大竪濠」

空堀奥の土橋の左手が「西城」郭の北側虎口方向になります。

 「西城」郭への進入路を側面から牽制できる位置関係ですね。

 

 

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同 9 地点の土塁線を撮影。

 

古宮城2 に続きます。

 

 

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