ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

大給城 (愛知県 豊田市)1

大給城

 

訪問 2019年5月

 

案内板 有り

駐車場 無し

 

 本年1本目のお城紹介は、愛知のお城シリーズ最終です。

 

所で、2022年の干支は寅ですが

 今年も拙ブログは亀の如くゆっくりと歩んで参ります(遅い更新頻度の言い換えです)

 

 さて、昨年の秋頃から掲載していた三河作手のお城巡りは、年末に紹介した古宮城が最終訪問です。

 大給(おぎゅう)城へは、作手からの帰りがけに軽く立ち寄った程度なのでサラッとした紹介に留めます。

 まぁ サラッと にはもう一つの理由もあるのですが・・

 

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大給城 主郭部からの眺望

 

 

場所はいつものようにグーグル先生にお任せ

 

国道301号から折れて林道ぽい道(舗装済み)を進むと

大給城の入り口に至ります。

 マップの大給城駐車場のピン・・訪問時はまだなかったような気がしますね。

 

 先に、帰りがけに立ち寄ったと書きましたが、作手から都内へ戻るなら大給城は全く逆方向なんです・・

 往路と同じ東名で帰るのはつまらない・・という単純な理由で

伊那~諏訪~甲府~都内 と言う大回りルートを下道を使って帰ってます。

 武田軍の進出ルートを逆から辿る感じでしょうか、それにしても遠かった・・・武田の補給線はどんな感じで維持していたんでしょうかね? 

 

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 さてさて、話が脱線しましたが大給城へと向かいましょう。

 小さな峠に大給城への案内板が出てます。

 車はこの辺りの路肩に停めさせてもらいました。

 

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 暫く歩くと城にゆかりのある「松平乗元」公の墓があります。

 

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 更に進むと、手前に案内板、奥には岩壁のように鋭い切岸が見えて来ます。

 

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 案内板の向かいには石碑もあり・・て かなり凝った石碑です。

 しかし、それより注目なのは石碑の背後。

 巨大な堀切がひと際存在感を放っています。

 岩盤を掘り込んで造られたこの堀切1本だけで大給城が尋常な城ではないことを感じさせられます。

 

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 遅ればせながら現地案内板の縄張図を掲載します。

 

 岩のマークが城の全域に散らばっている、他ではちょっと見ない特徴的な縄張り図ですね。 

 ゴロゴロ転がる奇岩を巧みに利用した縄張りが大給城の特徴でしょう。

 

 ちなみに図の右側が城の入り口方向。

 ここから時計周りに外周を見て、西側から主郭内部にお邪魔するルートを辿ります。

 

ここで

少し長いのですが現地案内板の内容を掲載します。

 

 

大給城址(おぎゅうじょうし)

 

 

大給城址は、西方眼下に九久平の集落を見下す標高201mの急峻な山上に築かれている。

 九久平は足助(あすけ)街道新城(しんしろ)街道との交差点であると同時に、巴川の水運と陸上輸送との中継地でもあるという交通の要衝であった。

 

 城の東西には、尾根づたいに攻めて来る敵の侵入を防ぐ為に、堀切A・Bを設けている。

 東側からの侵入路を通ると、門や櫓などで防禦された虎口(入口)を抜け、郭2を経て主郭1へと至る。

 城内のいたる所には花崗岩の巨石が見られ、主要な部分は石垣で固められている。

 Fは物見岩と呼ばれ、ここからは尾張の国をはじめ遠く鈴鹿の山々を望むことがきる。

 岩上には一辺数cmの穴が並んでいるが、いつ何の為に開けられたかは不明である。 

 D・E は石垣を駆使して谷に設けられた大規模な取水施設である。

 主郭1から南に下った所にある3は城主の館跡と考えられる。

 

 本城は、もと土豪長坂新左衛門の城であったが、岩津(岡崎市)に進出した松平宗家三代の信光が攻略し、三男親忠(松平宗家四代)に与えた。

 

 親忠は細川城(岡崎市)とともにこれを次男乗元に譲り、乗元大給松平氏の初代となった。

 大給松平二代乗正は永正7年(1510)までに城の大修築を行った。

 

 以後、乗勝親乗真乗、と続き、天正18年(1590)6代家乗のとき徳川家康の関東への国変えに伴って上野国(現群馬県)に移り、大給城は廃城となった。

 

 豊田市教育委員会

 

 

 

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 さてさて、岩盤堀切をもっと見てみましょう。

 大給城ですが山城の割に結構な人が訪れていましたね、それでも皆さん堀切は素通りするので 全く勿体無いと・・ 

 

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 接近すると更に良さが分かります。

 岩盤を削り込むだけではなく、更に石積みを載せて防禦力を高めてあります。

 

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我慢できず堀切に登ってみる・・ 

 本当に高いです、案内板も石碑もあんなに下にみえちゃいます。

 

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堀切を後にして更に進みます。

岩盤を開削し石積みで補強した堀底道(虎口)を進みます。

 奥の岩は露岩をそのまま虎口に利用しているようで、それでいてしっかり虎口になっている点が素晴らしい。

 

 

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そのまま虎口を抜けます。

 

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雰囲気だけなら、千葉の造海城に少し似ているような・・古代巨石文明の跡のような、およそ日本らしくない遺構。

 

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垂直にそそり立つ岩壁の隙間に石をはめ込んで全体を石垣の様に見立ててますね。

 

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 サイコロ重ねたような岩と岩壁を利用した切岸。

 いやこれを切岸と呼んでいいのかは判りませんが、確かに腰郭の防禦に担ってます。

 

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主郭方向を見上げて撮影。

 なんとも奇抜な城に思えます。

徹底的に地山をいじり城郭構造に変えているにも関わらず、あちこちに残る奇岩がそれを感じさせない作用があるのか・・

 

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腰郭の切岸面にゴロンとひっかかっている巨岩。

 

 

大給城2に続きます。