額田城
訪問 2019年1月
駐車場 有り(阿弥陀寺さんPを利用)
案内板 有り
1か月ぶりの記事アップです。
2021年は 月に2城は紹介する!
と 秘かな目標を立てたのですが、やっぱり難しい・・ 早速スローペース落ち着きましたが今回は 額田城です。
前回紹介した南酒出城は、この額田城攻略の為に築城された陣城とされてますので、2城はセットで見学するのがいいでしょう。
場所も近いですしね。
主郭から2重空堀を撮影
額田城の特徴と言いますか、訪れた者を圧倒させるのが規格外の巨大空堀群と、それらに守られた郭の広さでしょうか。
城の立地は段丘崖面を利用した、典型的な関東平野の平城になります。
さて、いつものように場所はグーグル先生にお任せ。
車は阿弥陀寺さんの駐車場を利用させてもらいました。
また「額田城2」で触れる予定ですが3郭内にも専用の駐車場が設けられています。
同じ図の使いまわしですが、今回の主人公額田城の立地の説明です。
南酒出城と同じく、段丘崖面を防禦線とし占地ですね。
こちらは阿弥陀寺さんの駐車場に掲げてある現地縄張り図、南北が逆ですね。
現在整備されているのは額田城の中枢の主郭・2郭のみ。
それでも十分広大ですが当時の城域は国道県道を越え周囲の集落を含むという、破格の規模を誇っていました。
その額田城の広さをイメージする為に、縄張り図の額田城外周部を赤線で加筆しました。
オレンジ色が城跡として整備されている主郭・2郭部。
参考までに同じ縮尺の大坂城。
スケール感が伝わりましたかね?
さてさて、額田城の見学は阿弥陀寺さんからスタートします。
縄張り図によれば、この阿弥陀寺さんの駐車場に空堀があったようですが、完全に消滅してるのか全く分からず。
こちらが今回の見学順路。
ここらで 現地の案内板の説明を掲載します。
額田城跡
額田城は鎌倉時代の建長年間(1249~1256)に佐竹氏5代義重の次男義直がこの額田の地に築城し、その後拡張を続けて戦国時代に現在の規模になったようである。
城域内には4つの郭が構築され、一地方の小領主の城としては規模が大きいものである。
前に大沼を持ち防禦に適した平城形式の城である。
城跡は壕・土塁など戦国時代の遺構を良く残している。
額田氏は10代義亮の時、佐竹宗家と対立し、応永30年(1423)佐竹13代義人に攻められ落城し、額田氏は滅んだ(前の額田氏)
その後、義人の家臣小野崎氏が城主となり、江戸氏から養子を迎えるなどして以降7代照通まで続いたが、天正19年(1591)佐竹20代義宣に「照通に異心あり」として攻められ落城した。
照通は陸奥へ逃れ、以後廃城となった(後の額田氏)。
城の歴史は17代約340年続いた。
阿弥陀寺は明徳1年(1392)に小野崎従通により大山(城里町)から城内に移されて額田氏の守護寺となった。
本丸跡面積 約16,000㎡
指定区域面積 約77,000㎡
城郭全体 東西1,140m 南北840m
ではでは、標識に従って進みます。
右手の森の中に額田城の主郭がありますが、手前の畑地も既に城内部です。
森の縁が空堀のはじまりで
堀の幅が尋常ではない・・
現在は空堀ですが、当時は湿地か水堀だったかも。
木橋から土塁線に進みます。
登って主郭かと思えばここ、手前の土塁線なんですね。
更に空(湿地)堀が控えており主郭を守る極めて厳重な構えになります。
これは後で紹介しますが、主郭側から同じ地点を撮影した画像。
2重堀は続きます。
この辺りからの攻略は容易ではないでしょうね。
外周部から見学するのがいつもの流れなので、土塁線を辿って主郭の段丘下面を目指します。
土塁線は段丘面で終わり。
今はなだらかに終わってますが、当時は防禦的な何かがあったでしょう。
水田が見えてきました。
ここが当時の大沼でしょう。
天然の水堀と段丘崖面で主郭を守ります。
大沼から崖線を登り主郭を目指します。
崖線には腰郭状の段々が残ります。
段郭を登ると空堀が現れます。
大沼側からの奇襲に備えたものか?
いわば搦め手側の防禦ですが、空堀は実に厳重。
主郭に登り、空堀沿いを歩きます。
主郭と2郭を隔てる空堀。
額田城随一の規模を誇る空堀で、現地の案内板によると「幅約20m、深さ9m」
難攻不落とはこのことか・・
こんな痺れるような空堀が、主郭をぐるっと取り巻いているんですね、どこまでも続くようにさえ見えたりします。
これだけでも遠征した甲斐があったというもの。
額田城2 に続きます。