それでは
浄福寺城 再訪1 の続きです
今回は 8 の主郭を後にして、今回初となる9~11の尾根を見てから北東側の尾根を伝って下山します。
主郭から東の尾根を辿り 9の大堀切を目指します。
2018年の記事でも触れましたが、東側3本の尾根から主郭を目指す場合、9の大堀切を必ず抜く必要があります。つまりこの大堀切が浄福寺城の最終防衛線と言えるでしょう。
ん ・・?
ここは9の大堀切の少し手前ですが、藪が一部払われており奥に道が続いているようです。
前回は完全な藪で道なんてなかったんですがねぇ、2回目以降じゃないと入れないダンジョン的な何か?
それでは踏み分け道にお邪魔します。
少し進むと写真では判り難いのですが、道は絶壁下りと表現しても良い位の下り坂になります。
むりやり 枝を掴まりながら降りた所で、振り返って撮影。
この壁のような山肌の正体は 切岸です。
遮断線を強引に降りてきた訳で全くお勧めできないルート。
さて、その先の尾根道は踏み跡も明瞭で比較的歩きやすい環境です。
どんどん尾根の先端を目指します。
土橋と竪堀の組み合わせ。
補助線を引くとこんな感じですかね。
土橋の幅は人一人が歩く幅に抑えられてます。
竪堀なのでずっと先まで続いてます。
10 付近同じく人一人分の幅を残した土橋の遺構です。
判り難いので再度補助線を引きます。
どんなに大勢で攻め寄せても、ここは一人ずつお進み下さいね と言う大軍の利を潰す仕様。
堀が土砂で埋まってますが、城が稼働していた頃は土橋以外に進む方法はなかったでしょう。
撮影は防禦側視点です。
反対側から土橋を撮影。
土橋と書きましたがこれ、実は岩盤を削り出して人一人分の幅を残してます。
これと良く似た岩盤土橋の遺構が伊豆の 韮山城の天ヶ岳 にもあり、改めて両城の類似性を感じさせる遺構に思えます。
韮山城が気になる人は以下のリンクをどうそ
前回2018年の記事では、これらの韮山城との類似性から浄福寺城を1590年に発生した秀吉による小田原攻めの頃の縄張ではないかと、勝手な妄想を展開してましたが・・・土橋なんて他の山城でもあるのでねぇ
所詮は素人の想像ではありますが・・・やっぱり似ている気がしてならないんですね。
さて、岩盤土橋を後にして更に尾根先端を目指します。
尾根上を削平化した段郭が幾つも続きます。
ここが尾根先端の11になります。
この先は尾根がぐっと麓まで落ち込むので郭はありません。
それでも竪堀を巡らせて尾根先端部まで警戒してます。
ここで尾根を引き返し強引に降りた切岸まで戻ります。
下るのはいいけど切岸を登るのはちょっと勘弁と思案していると、右手に踏み分け道を発見。
さて この道はどこに続いているのか?
踏み分け道の辿り着いた先は、9 の大堀切の手前。
このルートは安全でした。
撮影は大堀切を主郭方面を正面に捉えて撮影。
画像の左端辺りに踏み分け道があります。
城の防禦を考えるとこのルートが城本来の動線でしょうね。
さて、
こちらは前回も紹介した北東尾根先端にある12の堡塁状郭直下の畝状竪堀群。
畝に丸太を渡して作業道が整備されてます。
この「かまぼこ」のような特徴的な丸みを帯びた畝ですが、当初はこの形状に整えた築城者の意図を考えていたのですが、
これ、
植林作業で畝の凹凸が均されたのでは? とも思えてきました。
かまぼこ畝状竪堀群から12の郭を見上げて撮影。
12の郭、ここを火点とするならば、寄せ手が制圧するのは容易ではないでしょう。
足元のウネウネを突破し、右手の大堀切をよじ登ってようやく到達できるのですから。
畝状竪堀群を過ぎて13の竪堀を撮影した所です。
ここから先は縄張り図の外に出ますが、このまま稜線を辿って麓を目指します。
さてさて、どこに出るかが楽しみという訳です。
細い尾根道がしばらく続きます。
痩せ尾根という事ではなくて、画像左側が砕石場の敷地で恐らく採石によって尾根が削られていると思われれます。
ちらっと採石場を撮影。
西多摩地域には石灰石の鉱山やら採石やらと、結構この手の施設が多くありますね。
採石場から離れると、普通の登山道位の道に戻ります。
この辺りは既に浄福寺城の外になります。
画像奥に小ピークがあります。
小ピークで道が二手に分かれます。
ひとまず東側(右側)の尾根道を下ることに。
なにやら祠がありあます。
折角なのでお参りします。
そのまま道なりに降りると神社の脇に出ました。
降りた所はこのお堂の左手。
ここからでも浄福寺城に行けるのですが、遠回りで道も悪いのでお勧めはできないですね。
出た先は 「上宿御嶽神社」 でした。
お参りして、今回の浄福寺城再訪は終了です。
所要時間 2時間
まとめ
タイトルに「再訪」と入れましたが内容は補足編に近い物になってますね。
1の冒頭で出した今回のテーマからおさらいです。
①尾根道が一部消滅していて、見られなかった箇所
尾根道が開通していたので 今回は見られた。
史跡としての整備はなされてないので、作業道の整備状況は行ってみないと判らないというのが正解でしょう。
②主郭の位置が西に偏り過ぎているのは何故か?
西側にはやっぱり何もなかった 理由は謎のまま
後北条氏拠点級城郭である八王子城の北の守りという任務にしては西側(和田峠方面)の守りが薄いのは少々腑に落ちない縄張りに感じるのは、訪城前と同じ。
③勝手に妄想している伊豆にある韮山城との類似性に関してのヒントが欲しい
類似点が増えましたが、専門家じゃないので妄想を膨らませて楽しむだけですかねぇ。
あれこれくどくど書いてますが結論じみた事はなにもありません。
元々が伝承が途絶えた詳細不明な山城ですし、記録が残っていないという事実が、この城では特筆した戦闘は無かった証拠にも思えますが どうでしょうか?
八王子城関連のリンク
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