ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

御坂城 (山梨県 笛吹市)3

更新少し?遅れましたが 御坂城2 の続きと参ります。

 

 

 その前に

当初 御坂城の解説を省いてましたが、やっぱり少し触れようと思います。

 こんな山奥に大土木工事を施工した経緯なんかは説明した方がいいかと。

 とは言え、詳しい説明はウィキペデア先生にお任せです。

 

  時間は有名な本能寺の変の直後。

 3か月前に織田家が併呑した旧武田領で起きたお話です。

ja.wikipedia.org

 

 本能寺の変」に伴う混乱、特に崩壊する旧武田領の支配権を巡る争いを天正壬午の乱と呼びますが、この乱の主役は小田原北条氏と徳川氏と言ってよいでしょう。

 

 この両軍の戦略を考慮すると「御坂城」の記事より天正壬午の乱の項を読む方がむしろ適切、 この中で直接関わってくるのは「黒駒合戦」の項になります。

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 説明が面倒なので、北条・徳川軍のだいたいの位置を地図に落とし込みました。

 

 赤が北条で青が徳川ですよ。

 

 図の真上から降りる赤矢印が北条本隊。

 これは本能寺の変の直後、上州から滝川一益を駆逐し更に碓氷峠を突破して信濃を南下し甲斐国に迫ります。

 

 それを迎え撃つ徳川本隊が地図の中央上の青矢印。

 北条側は「若神子城」に、徳川方は「新府城」を拠点に防衛ラインを築き両軍は対峙。

 

 一方、甲斐の郡内地方を制圧して甲府盆地を狙う北条別動隊が右下の矢印。 

 別動隊が拠る御坂城は矢印先端の赤丸。

  そのやや左上にある青丸が徳川別動隊が籠る小山城。

 

ざっくりと、こんな位置関係でしょうか。

 

 所で、昔の記事ですが各城にリンクを貼っておきました。興味があればリンク先もご覧ください。

 

 この他にも、北信濃からは上杉軍が南下したり、真田のような国人領主が活動したり、果ては旧信濃守護の小笠原一門が傀儡として信濃入りしたりと旧武田領はカオス状態。

 

 そんな混沌の中、本能寺の以後にいち早く軍勢を整えた徳川軍がスルスルっと甲府盆地まで制圧できたのが個人的には何かきな臭さを感じてしまいます。

 

 本能寺の変の黒幕説もありますし、駿河から甲府へ兵を進める上で障害となる得る穴山領の穴山梅雪はご存知のように畿内徳川家康と別行動を取り都合良く死亡。 

 

 これ程お膳立てが整いましたとばかりに歴史の舞台から退場するもんですかね? 

 

 この一連の天正壬午の乱ですが、結果から見れば

既成事実を積み上げた徳川氏が甲斐・信濃(一部除く)を併呑し巨大勢力に成長。

 一方北条氏側は上野国を領するに留まり、更に上野国内の真田領の帰属を巡って秀吉軍に開戦の口実を与える遠因にもなっています。

 

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 さてさて、 話が長くなりましたが本題に戻ります。

 最終の今回は緑色のライン、郭内を縦断して帰路に就くルートを辿ります。

 

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  前回からのおさらいですが、竪堀を無理やり登った先は城の最西端に位置する土橋でした。

 土橋先の土塁と虎口を確認してから・・

 

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 登って来た竪堀も撮って・・

 

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 一旦 城の外に出てから城内方向を撮影。

ここからは尾根沿いに城を攻略する気分に切り替えて散策開始です。

 撮影地点の岩棚の方が城より幾分標高が高いんですね。

 

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 では、城内にお邪魔します。

 城の外周部ばかりを見てきたので、ちゃんと城内部を見るのはここからになりますね。

 

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 あんまり覚えてないですが郭内部です・・

 

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 歩いてきた横堀を城内側から撮影。

 

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 土塁線上から再び撮影。

 画像左端が横堀、土塁右側が西郭内部。

 巨大な横堀と土塁による堅固な防衛線に痺れます。

 

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 横堀側のアングルで撮影。

 

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 ちょっとくどいですかね・・・

ですがここの防衛線は実に「絵になる」と言いますか、ここまで歩いてまでも御坂城を訪れる価値があると思わせる魅力があります。

 

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 高原の小路を歩くように土塁を辿ります。

 

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西の郭の終点堀切に到着。 

 

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 例のトイレまで戻りました。

 要所要所で、このおトイレは目につくんですねぇ~

 

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東の郭内部を辿って(登山道は郭内部を縦貫) 来た道を戻る事にします。

 

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 往路で歩いたのは空堀挟んで城外(左)側です。

 

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 こんな高い所まで来て、これ程の土木工事を成し遂げた労力に改めて関心すると言いますか・・

 

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 こんな高地の峠で土建屋さんやってないで1ミリでも前進していた方が良かったんじゃないかと・・

画像は、空堀に架かる飛び石? を郭内側から撮影したものです。

 

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 お邪魔しました御坂城 という事でここから1時間かけて元の旧御坂トンネルまで戻ります。

 

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  復路は省略しまして 旧御坂峠まで戻った所です。 

 時間は12時。

 折角なので旧国道トンネルを見学します。

 

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 御坂隧道の案内板。 

 歴史のあるトンネルは「隧道」と呼ぶ方が相応しい気ががしますね。 

 

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  照明付ですがやや暗いですね。

隧道端部から中央に向かってやや登り勾配が設けられているようで入口から反対側は窺えません。

 

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反対側に出ました。

 

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 扁額を撮影して御坂城訪問は終了です。

 

 

所要時間 5時間

 往路 1時間20分

 御坂城滞在 2時間40分

 復路 1時間

 

御坂城の評価は 5 とさせて下さい。

 常の山城巡りでは、近隣の城郭を含めて一日で複数の城郭を訪問するものですが、ここ御坂城は往復の道程を考慮しても1日1城と割り切って訪問した方がいいでしょう。 

 

 往復の道のりだけでも2時間以上が必要とならば、次のお城訪問を考えながらではなく、じっくりと腰を据えて御坂城を堪能して貰いたい気持ちを強く感じます。

 

 土の城好きならば1日1城でも十分に満足できるのが御坂城だと思います。

 

 御坂城は非常に技巧的な縄張り、峠という稜線鞍部を主郭に持ってくる立地条件、築城の経緯等を踏まえても興味が尽きません。

 例えば、これだけの巨大な空堀を巡らせている御坂城ですが、郭内部はほぼ元の斜面もまま。

 いかにも突貫工事で仕上げたような造作には、限られた「人・物・金」 そして時間 と言う厳しい制約の中で最大限の防禦力を城に付与させる「割り切り」を感じます。

 

 そんな要素を含めて今回の評価は最大の5になります。

 

 まっ それでも思うんですよね、本当にこんな山奥で土いじっていて良かったのかと? 

 「天正壬午の乱」と言えば聞こえがいいですが、実際は火事場泥棒的な支配地争い。

 早く領土につば付けた方が圧倒的有利なんじゃないですかね?

ならば、無理は承知でも峠を下って寸土といども甲府盆地に旗を立てた方が戦略的には有利ではなかったのかと。