ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

小山城 (山梨県 笛吹市)

 関東では桜も散り 陽気はすっかり春ですが、 今回は正月早々に訪れた山梨県の城郭ネタをようやく掲載します。 景色は真冬の冬枯れ模様となってますが悪しからずです。
 
 と、言う訳で今回は 旧八代町にあるマイナーな城郭 「小山城」です。城郭大系によると こやま と読むそうです。
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 小山城土塁上から廓内部を撮
 
 小山城は単廓式の小さな城郭遺構です。 甲府盆地を東西に横断する笛吹川の南岸に広がる扇状地上に築かれています。
 この辺りは土地柄 一面の桃園が広がる地域で、 訪城には少々解りにくいと思っていたのですが・・どおいった訳なのか ナビにはっきり表示されており問題なく辿りつけました。  
 それにしても 小峰堀切りは載ってないのに カーナビの掲載基準が良く解りません。
 
 

 
 現地案内板を抜粋
 小山城は 浅川扇状地北端の小丘を利用して構築された面積12046㎡の武田時代の城である。
城の南辺の土塁が一部削平されている以外 他は良く残され  土塁は底辺が約15m、高さ3~5mの規模を有する。
 土塁北隅の平坦部(東屋がある)は櫓台と考えられ、礎石が現存している。 虎口が東にあり、幅約10mで脇に石組みが遺存している。
 -中略-
 また 土塁北10mの所に物見塚と言われる通称 「ごんぱち塚」 がある。

宝徳2年(1450年)穴山伊豆守が居住しており、 小石和の武田信重館を攻めている。
 永正の頃(1504年)穴山伊予守信永が住み、 大永3年(1523年)3月に鳥坂峠を越えて侵入してきた南部下野守と花鳥山で戦ったあと小山城で防戦したが、 利あらず二ノ宮常楽寺へ落ちた。
-中略-
天正10年(1582年)甲斐国争乱の時、 御坂城の北条勢に対峙する徳川家康は、 鳥居彦右衛門にこの城を修築させ、 騎馬130 雑兵600人をもって守らせたと伝えられる。
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 城郭大系の縄張り図を拝借
 
図の下側の切れ目は後世の破壊かと、 図右側の切れ目が本来の虎口になります。
 この城が 歴史上で登場する機会は 「甲斐国争乱」と案内板に紹介される時期でしょうか。
 
 本能寺の変後、 権力の空白地帯となった旧武田領を巡る北条と徳川氏の争いの最中、 甲府盆地の確保に成功した徳川方が、 甲斐の郡内地方を抑え御坂峠から盆地を窺う北条別働隊のけん制に 鳥居元忠に命じてこの小山城で守備に当らせたそうです。
 
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単なる 方形居館程度と思えば 以外に堀と土塁がしっかり残っていたりします。
 冬枯れの季節なので 遺構の観察にはもってこいで・・気のせいか 堀底に畝の跡があるようなないような・・・
 
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 ひとまず 土塁に登ります。
方形の角には東屋があります。 角は土塁がいくらか外側にせり出しており横矢(側面射撃)を意識した造りになっていそうです。 意外に実戦的な造りという印象を受けました。
 あと意図は不明なのですが 土塁の稜線が凸凹と波打ってます。 
 
 
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土塁上から廓内部を撮影。
 丁度グラウンド位の広さです。 実際に何かの競技が行われるのか 白線の跡があります。
 土塁の本格的な高さが何となく解るかと思います。
 
 
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 虎口を廓外側より撮影。 シンプルな平虎口だったようです。
 案内板はここにあります。
 
 
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 唐突ですが 土塁上から臨む甲府盆地です。  ・・・靄ってます。
 春になると この辺りは一面の桃の花で それこそ桃色に覆われた斜面は見事なんですよ。
 
 
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 城北側より 土塁を見上げて撮影。
 地形的に勾配が最もある部分になります。 手前の土塁の奥にある空堀は、この位置では隠れて確認できません。
 
 
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 城の西側にある「ごんぱち塚」を土塁上から撮影。
物見台と説明されてますが 土塁の稜線よりやや低く 城から微妙な距離を空けて築かれてます。
 これの意図が 良く解りません。 物見台なら城内に組めば済むのでは?
 
 
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接近して ごんぱち塚を撮影。
 笹に覆われているので お椀型の土盛りに見えますが よーく見ると 斜面は切り立っており 例えて言うなら プリン型をした土盛りだと思います。
 よほどしっかり突き固めて築かれているようです。
 
 1000人弱の鳥居部隊の駐屯には丁度いい広さと規模だったのかもしれませんが、 北条軍相手に消極的な籠城策を採るにはちょっと厳しい縄張りであったろうというのが印象です。 
 ただし 現在残る土塁や空堀の保存状態は良好であり 特に土塁の高さは一見の価値ありかと思いました。