富津元洲堡塁砲台
訪問 2018年2月
駐車場 有り
案内板 無し
伝堀越御所の次は本来の順序なら韮山城の紹介ですが、こちらも長々と続きそうな予感がする為 後回しにします。
撮り溜めた写真をまとめるのが結構大変なんです、毎度のことですが。
そんな訳で今回だけはガラりと代わって東京湾口に残る近代遺構の紹介とします。
砲台跡の歴史を現地案内板より
富津公園一帯は、明治14年、時の明治政府により砲台と海堡が築かれました。旅順といえば28センチ榴弾砲でしょうかね?
この中の島は元洲砲台として同年8月に起工し、約3年の歳月をかけて築造されたものです。
築造の方法は、幅20~30mの外濠を堀り、海水を引き入れ砲台の整備とし、濠の砂を盛り、くずれを防ぐため外面を富津市二間塚の土で覆ったといわれ、現在もその痕跡を留めています。
明治28年には東京湾要塞司令部が発足し、守備隊がおかれました。
元洲砲台には歩兵中隊446名が守備についたが、幸いに富津の砲台は一弾も発射されることなく、日露戦争には一部攻城砲として、旅順に送られたものもありました。
大正4年に9月に旧式として除籍され、陸軍技術本部の大砲試験場となり、後に24センチ列車砲も設けられ、その試射もありました。
以下省略
場所は以下のURLを参照して下さい。
砲台跡の堡塁は公園のほぼ中央にあります。
さて、さっそく裏側(東京側)の開口部からお邪魔します。
橋の途中から撮影。 裏側の堀幅は正面よりやや狭く造られています。
内部全景。
外海側の土塁線には砲台跡の窪みが残ります。
外海側土塁線を見上げるとレンガ造りの壕の跡?らしきものがあります。
穴は塞がれてますが画像右上に煙突状の物が残されていますので内部には空間があるのかな?
こちらは入れそうなので
お邪魔します。
内部はこのような狭さ、壁のアーチ状の窪みは何でしょうね?
画像右上に円錐形の穴がありますが何故か先端部は塞がれています。
上部から撮影。 爆風除け?の擁壁が分厚い。
この無骨さ、頑丈さはまさに要塞。
湾内側(東京側)を撮影。
これは何でしょう? 観測装置の土台ですかね。
砲座跡。
外海側を眺めながら一枚撮影。
という訳で 記事は以上です。
近代要塞も面白いですね。 海岸要塞とか列車砲なんて単語にはビビッと来てしまいます。
浦賀水道を守っていた海堡も機会があれば行ってみたいものです。