ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

八王子城 主郭北麓  11 まとめと 氏照墓所の背後 編

八王子城 主郭北麓  10 最終防衛線  高丸 編  
の続きと参ります。

 

 

 

 

八王子城 主郭北麓編 のまとめ回です。

初回で8回程度になりますと書きながら今11回目。

妄想力が予想以上に増殖してました。

 

 

前半は、全体のまとめと縄張りの考察(妄想)

後半は、城主北条氏照公の墓所を訪問します。

 

 

所で

このブログを見て主郭北麓に行ってみたいと思う人・・

 果たして存在するか不明ですが、実在したらツチノコ並みの激レア趣味人に違いありません(一応褒め言葉のつもりです)

 

紹介したルートは全体的に整備状況が悪いのでツチノコさんにも諸手を挙げてお勧めできるものではなく 

 

そこで

 

一般の登山道からアプローチできるポイントをまとめました。

併せて一般登山道からも見られる「技巧的な縄張り」にも少し触れて これまでのまとめ とします。

 

 

麓のガイダンス施設から、本丸へのルートを辿りながら番号順に紹介します。

 

1

ではスタートはこちら 

八王子城に登りました」 の超定番アングル。

 

見どころポイントは 撮影地点は既に桝型虎口 の中という点です。

 

鳥居の裏に両側から土塁が迫って参道部分は開口部(虎口)になってます。

 ※前の写真だと鳥居が無くなってますね!

 

次に

鳥居をくぐり金子曲輪のある稜線ルート(新道)を選ぶと左に折れて

2つ目の鳥居から稜線ルートが始まります。

 

ここも縄張りの技巧性ポイントで

切岸が稜線を横断して動線を左に迂回させるスロープ状の虎口になってます。

 

右側の点線矢印も補足します。

切岸ラインの際に土塁の一部に切り欠きがあり虎口のような開口部があります。

往時は石積みで補強されていたのか、それらしい石が周囲に散乱してます。

本来の動線はこっち??(妄想中)  

 

スタート地点の桝型と合わせると2重に虎口を重ねる厳重な構えであった事が想像されます。 

あれが無いこれが無いと書いてきましたが

抑えるポイントはきっちり抑えているのが八王子城の縄張り。

 

 

更に進んで

2

「旧道」から見上げた稜線上の「金子曲輪」の石積み遺構。

稜線ルートの「新道」では足元になるのでほぼ誰にも気づかれない不遇な石積み遺構

不人気な旧道ですが石積みを見るなら旧道がお勧め。

 

 

3

「柵門」跡と呼ばれる稜線鞍部。

ベンチが置かれちょっとした休憩スペースと旧道恩方方向の分岐(右矢印)との合流点です。

 柵門背後の切岸上の郭からは撮影地点を火力で掃射できるいわゆる火点として機能したと思われます。

 動線は、左に迂回しその先は坂道をゆるゆる登る虎口。例えるなら御主殿虎口の縮小版のような。 

 ゆるゆる虎口は注意深く観察すると法面に石積みの遺構があります。

 

 

この先は紹介エリアへの短絡アプローチ路。

4

高丸曲輪への入口案内。

この先危険の解釈が悩ましい・・・立ち入り禁止? 注意喚起? どっちデスカネ?

 

5

「小宮曲輪」背後の巻き道ルート、山火事注意の看板が目印。

本丸への近道ならこちら

 

 

6

本丸跡、標柱脇に隠れる作業道ルート。

無名曲輪へ連なる稜線ルートと、本丸北側を守る腰郭巡回ルートに分岐します。

 

 

7

無名曲輪への別ルート。「詰め城」へ向かう途中にあります。

表記は作業道としか書かれてません。

 

 

8

「馬冷しの大堀切」から始まる西方堡塁群へのアプローチルート。

左側の水平道(上下どちらでも)が堡塁群へ続きます。右ルートは立ち入り禁止です。

 

 

以上が一般登山道からアプローチ可能なルートと技巧性などの見どころポイントの紹介でした。

 

 

 

 

 

以下は 

八王子城の縄張りについての想像(妄想)です。

 ※妄想故に根拠はありません。適当にご笑納ください。

 

 

 

まずは整理の為に 既出の紹介ポイントを図に落とし込みました。

広い範囲を網羅してますがこれでも八王子城の外郭部は含まれません。

周囲の稜線や、「小田野城」「浄福寺城」等の支城網も含めると城域は更に広大。

面積に限れば後北条氏の主城小田原城に匹敵しますよね、ここ。

 

 

まずは 

初回に想像(妄想)で述べた八王子城縄張りの特徴 のおさらいです

①山城では一般的な「堀切」の分布は、太鼓郭・本丸西側の2エリアに限定される。

②「金子郭~柵門」 と 「馬冷やし大堀切~詰め城~北尾根」 の尾根筋は赤ラインの防衛線によって一体化されている。

 

 

これに加え

「西方堡塁群」の紹介頁で述べた堡塁群(稜線上の石積み防衛ライン)の特徴として

・堀切がない

・明確な郭がない

・明確な郭がないので、明確な虎口もない

・畝状竪堀群や横堀などの斜面の普請がない

・そういえば明確な土塁がない

 

 

次に

八王子城のおかれた状況のおさらいです。

・築城は天正15年(1587)~ 落城は天正18年(1590)6月22日。 工期は僅か3年。

豊臣方との外交関係が悪化し開戦が迫る中の普請作業。

・攻撃を受ける(落城)の具体的な日付は判らない。

落城時の工事進捗率は不明。

・城主北条氏照を含め練度の高い主戦力は小田原城へ抽出され兵員不足。

代替の兵力は農民などの動員兵が主体で練度は低い。

 

更に

時代背景も要素として考慮

・戦国初期の地域の小領主間の小競り合いの時代を経て、数か国を領する地域大国同士の総力戦の時代。動員兵力は初期とは比較にならないほど増大。

・火縄銃の普及による火力戦の時代

 

 

上記の条件下を踏まえて当時の状況を推測(妄想)

・普請は優先順位を付けて着手、居館や主要部・脅威度の高い箇所から作業を進める。

・脅威度の低い箇所は後回し、または簡易的な普請に留める。

・抽出された兵員数に合わせて城域の設定を縮小・最適化する。

・兵員の練度低下に合わせて縄張りを単純化する、併せて工期の短縮を図る。

・火力戦に対応した縄張りで普請する。

 

 

 築城中は日増しに豊臣方との軍事的緊張が高まりつつある最中です。

 開戦に備えて一刻も早い八王子城の戦力化が求められたはずですが攻撃を受ける日時、つまり工事の完了期限は相手次第で、普請の進捗とは無関係に訪れます。

 現代から見れば八王子城落城は歴史的事実ですが、当時イムリミットの天正18年6月22日は知る由もない未来の出来事です。

 様々な制約、時間的に限られた条件下で、リソースを最適に配分し普請を進めその中でも最大のパフォーマンスを発揮する城を築く必要がある。

 現代の感覚では超ブラックな職場環境ですが、これこそ個人的に中世城郭の醍醐味と感じる点でしょうか。 縄張りの取捨選択・無駄が入り込む余地がない環境。

 平和な江戸時代に人・金・時間をたっぷり投入した「僕の考えた最強のお城」近世城郭とは背景の緊張感が違います。 

 

 

話題がやや脱線したので戻します。

 

さて、今回のテーマの一つである

「稜線上の石積み防衛ライン」

こちらについてもまとめてみます。

 

下の縄張り図に 石積みラインをピンク色で強調してみました。

本丸東側の「金子曲輪」 南側の「太鼓曲輪」 そして西側の「西方堡塁群」

の合計3本。 

「太鼓曲輪」尾根は大堀切でぶつ切りされてるので厳密には少し状況が異なる

 

「金子曲輪」「太鼓曲輪」 2本の稜線防衛ラインの目的は明白で

城主北条氏照居館一帯を囲むように配置され居館を含む山麓部から山頂主要部南側の防衛線の役割を担っています。

 

一方

「西方堡塁群」の目的は?

西の稜線沿いからの攻撃に備えて整備されたと示唆されてますが、以下の点からこの従来の説にはやや疑問に感じられます。

 

・3本の滝と岩盤竪堀によって北側の谷筋を抑えている限り、堡塁群内側(水汲みの谷津)広大な安全地帯となる点。

北の「細久保谷からの奇襲攻撃の伝承により北側の防禦にも配慮が必要と思われる点。

 

 

例えば 西側のみを考慮するならこんな縄張りで済むのではないでしょうか?

妄想で縄張りをピンクラインで引いてみました。

 

主郭部西側に「西八王子城(仮)」の爆誕です。  

 ※勿論そんな城は実在しません。

 

 稜線に堡塁群のような長大な防衛線に普請せずとも「詰め城」の小ピーク部だけを出城として普請すれば西の稜線からの侵攻に対応可能である、と仮定しました。

 こちらのプランなら「工期・経費・人員」全て大幅に圧縮可能。

 

 一般観光向けのパンフでも、そのように受け取れるイラストが描かれており一般認識での「詰め城」八王子城主郭部の関係はこのような縄張りでしょう。

 

 そもそも「山城」は稜線上に幾つも築いて連携運用する方が一般的に思える訳で・・

全部繋いで一体化させた「八王子城がむしろ異常、と言いますか乱暴。

 

 

つまり別の理由もあるとは言えないでしょうか。

例えば

全部繋いで「水汲みの谷津」を囲む意図があったのでは?

 

 

個人的には これ

小田原城のような「総構え」を目指した

総構え第一期工事完了の姿ではないかと。

 

第二期工事「太鼓郭尾根」「熊笹山」「富士見台」経由する尾根筋になるのか?

 完成すれば「山上の小田原城と呼んでもいい壮大な規模の城砦ですが兵員と時間の不足で二期工事は早々に諦めたようにも思えます。

 今も稜線上にぽつぽつ残る城郭遺構と思しき地形は、計画を縮小し物見台程度に抑えた名残か工事途中で放棄された状態にも感じます。

kurokuwa.hatenablog.com

その辺りに興味のある方はこちらをどうぞ

 

 

 

あれも無いこれも無い城郭パーツが色々ない現象

 稜線沿いに石積みを積み上げた段階で開戦を迎えてしまった未完成の姿とも考えられますが、個人的には今の姿が一応の完成形だと考えます。

 小田原城の総構えも単純な塁線と空堀の組み合わせが主体です。塁線の複雑な折れによる横矢掛りなどのギミックより火力による制圧を重視したような縄張りではないかと。 

 それに単純な縄張なら練度の低い兵でも使いこなせるというメリットもあります。

 

 例えば、八王子城の北方に控える支城と推測される浄福寺城

 浄福寺城のコンセプトは全く逆で、複雑な動線と十字砲火を意識した縄張りを持ちます。

 八王子城も稜線上の縄張りに複雑さを求めていれば支城の浄福寺城のより本城の八王子城を優先して着手するのが自然な考えでしょう。

 恐らく浄福寺城には複雑な縄張りを使いこなせる精兵を少数配置する目論見であったのではないでしょうか? 

 ただ、浄福寺城はその卓越した縄張りとは反して名前すら現在に伝わっていません。無名曲輪と同じ理屈なら当時の参戦者の印象に残っていない・・事前に放棄されるなどして戦闘が発生してない可能性も考えられます。

 

 

開戦時の八王子城の普請進捗率は不明。

当初の計画と比較してどの程度の進捗なのか? 最早知りようがない事実です。

 が、城主北条氏照が居館機能を移転している事実からも城主の安全と戦闘に耐えうる機能を既に有していたのは間違いないでしょう。

 よって、本丸真裏の尾根筋であっても簡易的な縄張に留めているのは、間に合わなかったというよりも脅威度が低いと判断されていたと考えてよいかと思います。

 逆に、本丸から離れていても厳重に普請された箇所(ライン)については築城の際に重視された所と考えることもできるでしょう。

 

 

堀切の分布に偏りがある点

偏りと言いますか「太鼓曲輪」尾根を除くと

西方堡塁群と無名曲輪の境 に1本

無名曲輪の東端部 に2本

詰め城西側  に1本

合計4本しかありません。それも全て本丸より西側。

堀切の数だけなら浄福寺城の方が勝っているのでは?

 前述の「稜線上の石積み防衛ライン」を重視するなら堀切に頼らない縄張りの設計プランになるのは当然の流れでしょう。

 西方堡塁群は、構造上ラインの1か所でも突破を許せば全てが失陥する為、堡塁群を放棄した際の新たな防衛ラインの設定として無名曲輪の手前に堀切が設けられたと考えていいと思います。

 

 

 

色々あってのまとめ

色々と妄想を書きましたが

 豊臣方との軍事的緊張が高まる戦国時代最末期北条氏照は既存の拠点城郭滝山城を廃してまで八王子城を築き本拠地と定めています。

 八王子城は、当時の後北条氏の置かれた状況・各勢力の動員能力・兵器や戦術の進化・これまで蓄積した戦訓等の諸事情を全て踏まえて築かれた戦国時代最末期に新規築城された山城である。

 

この一点だけは正解でしょう。

 

 つまり山中に残る八王子城の遺構群こそが後北条氏が導き出した生存への最適解の姿である、と。

 

一般論的にお城の進化史として

山城 → 平山城 → 平城  と進化し

現在残る多くの近世城郭が平城である点から「山城は古いタイプの城」である との認識が未だに強く残ります・・が

 

進化は必ずしも1本道ではなく

 

八王子城は戦国末期の火力戦・大勢力による大規模動員に対応した次世代の山城。

 

妄想の結論はこのようにまとめたいと思います。

 

東国で培われ進化した城郭系統の到達点であり、近世城郭の進化の系譜には繋がらない独自の技術体系といえるでしょう。

 

 

後北条氏と戦国時代がもう数十年存続したならば近世城郭の時代を経ずに「旅順要塞」のような近代的要塞が誕生したかも・・と

 

 妄想が暴走しだしたので、この辺りで後半に移ります。

 

 

 

北条氏照墓および家臣墓

こちらに寄り道します。

 

久々にグーグル先生にも登場してもらいます。

 

ガイダンス施設手前に案内が出てます。 ここからスタート。

 

道なりに進むと階段が見えてきました。

 

支尾根末端から階段が続いてます。 登り切った先が目的地です。

 

階段途中で撮影した段郭としか思えない削平地

 

登りきるとのような平坦地があり

ここが北条氏照と家臣の墓地

 

詳細は以前紹介済なので割愛します。

実は今回の訪問には別の目的があります。

 

それは

背後の尾根筋を登ること。

 

 

脇にも段郭切岸がありますが竹林は私有地の為 入れません。

 

本格的な要害性はありませんが監視哨・物見台程度の普請か?

 

ここを過ぎると

普通の尾根道になります。

訪問は7月・・・真夏に登っちゃ駄目ですね。

樹林帯は無風で耐えられない蒸し暑さ。

 

 

そう言えば

八王子城の戦いが発生したのは

天正18年(1590)の旧暦6月22日  

新暦グレゴリオ暦)に直すと7月23日 

 

くしくも同じ季節に登っていました。

とは言え、現代の方が絶対に気温は高い。

 

 

地理院地図では北の支尾根ルートの分岐点ですがフェンスで塞がれてました。

 

その後も順調に尾根道を進みます。

しかし期待した遺構らしき地形は皆無です。 

 

 

そのまま主尾根への合流点が見えてきました。

 

ここは?

三叉峠  

 

合流先は「心源院歴史古道」と呼ばれる稜線ルート。

南下すると 3 で紹介した「柵門」へ 北上すると麓の「心源院」へ下ります。

 

 

この稜線ルートは既出なので気になる方はこちらへ

kurokuwa.hatenablog.com

 

柵門方向へ向かいます。

 

途中の尾根上の小ピークを北側から撮影。

前回と逆方向から辿ると自然地形に見えていた小ピークも監視哨でも設置していたように山頂部が削平地化されているように見えます。

どちらにしても非常に微妙な地形です。

 

 

 

 

八王子城 主郭北麓編 は以上で終了です。

 

 八王子城はここ数年集中的に扱っているテーマですが、全体の網羅にはまだほど遠いのが実情ですね。一体何年かかるのか、未訪問の支城も幾つか残ってますし。

 あちこち遠征して新規の城郭訪問も良いのですが、一つの城を深堀りするのが最近のマイブームになってます。

 

 

他の八王子城関連はリンク集から

kurokuwa.hatenablog.com

 

全体の記事検索はこちら

kurokuwa.hatenablog.com