ではでは小谷城1の続きと参ります。
再び登場の縄張図です。
(13)番の本丸手前から再開します。
ここは本丸石積み遺構。日当たりが良いので苔なし。(最近 苔の有る無しが評価基準になってきてます・・)
本丸内部にお邪魔します。
内部は2段に別れていますがいずれも大広間郭に比べればコンパクト。
居住性よりも戦闘指揮所といった役割を担っていたのでしょうか。
本丸から大広間を見下ろして撮影。 尾根を削平化してこれ程の平坦地を確保するにはかなりの労力を要した事でしょう。
本丸裏側を守る大堀切。
画像に収まりきれない程の巨大堀切。
次の(17)中丸周辺に移動します。
大堀切から中丸内部への導入路
導入路脇に残る石積み遺構。 苔にいい具合に覆われていて 大好物ですね。
動線の90度ターン。
その先、石段と石積遺構。
落城した城跡に残る石積み・・なにか魅かれるものを感じます。
刀洗池跡。
実は小谷城だけで写真を300枚以上は撮影したので、この辺りからどこを撮影した画像なのか・・記憶が曖昧になっています。
解説と画像の場所が一致してないかもしれないでがご容赦下さい。
石積みで固められた虎口を過ぎて更に奥に進みます。
(18)京極丸 (19)小丸 に移動します。
解説文にもあるように、この京極丸の失陥が小谷城の落城を決定づけた瞬間になります。
尾根上を利用した連郭式城郭は横腹を突かれるといういわば「想定外」の攻撃には案外脆弱な構造なのかも知れません。
京極丸に残る間仕切り土塁。東側の郭との隔てになっています。
京極丸は大広間に次ぐ位の面積を確保している巨大な郭です。
その上に控える(19)番の小丸郭。小の字が付きますが名前に反してかなり広い郭です。
そしてここは長政パパ「浅井久政」の最期の地。
ご隠居なのでもうちょっと年長をイメージしていたのですがまだ40代だったんですね。
小丸土塁に残る石積み遺構。
本丸の石積みよりも石が大きめにカットされています。
その上、(20)番の山王丸に移動します。
山王丸跡。 奥に控えるのは巨大土塁。
ここまで登ると観光客はほぼ姿を消し、静かな城跡の佇まいに戻ります。
土塁の拡大。
土塁裏側に残る石積み遺構。 ここの石は本丸程度の小型。
石の大きさに違いがあるのは組まれた時期によるものでしょうかね?
山王丸から次の郭である (21)番の六坊まではしばらく自然地形の尾根道を登ります。
途中垣間見えた大獄方面。 途中岩が露出しているのが確認できます。
六坊の案内板。
土塁を巡らせてあるのが確認できます。
この六坊郭の土塁は防禦というより各寺社の間仕切り用途で普請されたように感じました、防禦には余り気を配っているようには思えないですね。
六坊郭を過ぎると道が三又に分かれます。
正面は(23)番の「大獄城」へ至る尾根道ルート。
右は(22)番の北側支尾根にある「月所丸」へ向かうルート。
左は「清水谷」へ降りるルートになります.
あんまり人が行かないであろう月所丸を見てから大獄方面に行くことにします。
途中の道は細く一部笹藪化しております。
この笹藪がちょっと曲者でして・・それは最後に
月所丸の案内板。
畝堀を見落としていたのに帰宅してから気づき少し後悔。
ここは朝倉軍によって臨時に築かれた小谷城の搦め手方面の尾根を守る郭。
月所丸の特徴は案内板記載にもあるように大きな土塁でしょうか。
登りながら見てきた他の郭とは一線を画する戦闘に特化したような無骨な造り。
巨大堀切。
石積みによる補強は無く、関東の藪城の雰囲気に近いかも。
大堀切を過ぎても尾根は幾筋かの堀切によって厳重に遮断されています。
堀切を過ぎてからもう少しだけ歩きます。
尾根上が平たく均されているのは軍用道路として整備されていた頃の名残でしょうか。
さて、月所丸から三叉路にもどりまして大獄のある小谷山山頂を目指します。
画像では穏やかな山道ですが、大獄までの山道が小谷城で一番キツイ登りでした。
麓から登り続けてそろそろ足腰に疲れが溜まった頃、このタイミングでの心臓破りの急坂は何度も「引き返そうかな」という誘惑に駆られます。
途中にある「岩尾」と言う所で小休止。
ここは絶景ポイントです。小谷城の中枢部尾根筋と麓が一望。
岩尾という名前からして 途中に見えた岩肌の辺りなんでしょう。
小谷城3 に続きます。