ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

熊倉城 (埼玉県 秩父市)

熊倉城

訪問 2018年 6月

 

駐車場 無し(付近林道に駐車余地あり)

案内板 有り

 

 

 秩父のお城第二弾はご存知?・・熊倉城です。 そして秩父編はこれで一旦終了となります。

 え~今回試しにフォントサイズを一つ大きくしました。 この方が見やすいですかね?

 

 

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熊倉城 本郭切岸遺構

 

場所は以下のURLを参照して下さい。

 

 

 

 

 地図上の城山が熊倉城の所在地です。

 

 熊倉城は山麓からの比高300mを超える本格的な山城で、背後の熊倉山へと繋がる稜線上の城山山頂部を利用して造られています。

 

 熊倉城へは麓から熊倉山への登山道が縦貫しているので、それ辿れば当時の在番兵の気持ちを味わいつつ熊倉城への訪城ができそうですが、今回は体力と時間の不足もあり車で背後の尾根鞍部まで登りそこからの訪城になりました。

 

 幸い完全舗装の林道が延びているので、そこまで車を利用しての訪城が可能です。

 

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峠だけ道幅が広いので車を停めやすいですね。

 

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熊倉城へはこちらの尾根を進みます。

 

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反対側は熊倉山への登山道です。

 熊・・やっぱり出没するんでしょうね。 念の為 熊除けの鈴を装着。

 

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 消えかけてますが熊倉城跡入口の標柱もあります。

  城へは下りの尾根道を辿る訳ですが、熊倉城の立地が峠脇の小ピーク(城山)なので少し登る事になります。

 

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 ここで現地縄張り図を掲載。

縄張り図の右側からお邪魔するので、城の搦め手側からの訪問になります。

 

縄張り図解説文を掲載します。

 

県選定重要遺跡  

熊倉城跡

 昭和44年10月1日選定

 

 熊倉城跡は、城山(648m)山頂の幅40m、長さ160mほどの平坦地を中心に展開している。

 二条の大きな空堀や多くの土塁の跡がうかがわれる山城である。

 城跡の外周は急斜面がほとんどで、まさに要害の地であったと思われる。

 

 関東管領山内上杉氏の家宰長尾景信の死後、上杉顕定は景信の弟忠景を家宰とした。

 しかし景信の子長尾景春はこれに不満を持ち、文明6年(1474)主家上杉家に反旗を翻した。

 これを知った扇谷上杉氏の家宰太田道灌は文明10年(1478)には景春を鉢形城から追い出し、文明12年6月には景春の籠る熊倉城を攻め、ついに景春を降伏させた。

 

 熊倉城には井戸がなく、谷津川上流より引水していたが、城攻めの折発見され落城したと言われる。

 また日野、白久にはこの熊倉城に関する伝承も多く残っている。

 

 解説文にあるように熊倉城が歴史上に登場するのは15世紀後半、長尾景春の乱の時になります。

 戦国時代のきな臭さが現れる時代と言ってもいいでしょう。

 確実に戦国時代最末期の造りと判る「八王子城」や「山中城」とは同じ中世城郭でも約130年もの開きがあります。

 

 と言う訳で、戦国時代初期の城郭遺構を堪能しようというのが今回の訪城目的です。

 

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 さて、ウンチクはこの位にして早速熊倉城にお邪魔しましょう。

 と、いきなりこの恐ろしい警告が現れます。

注意と言われても一体どうしろと・・目立つ服装にするとかですかね?

 

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 さっきのは見なかった事にして、なだらかな尾根道を進みますと・・ 

 

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 すぐに痩せ尾根に変わります。

 

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 そして尾根を断ち切る堀切、堀底の堆積も少なく良く残っています。

 

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 堀切の先も痩せ尾根が続きます。

 

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 この堀切の先が「2の郭」

 

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 堀切に渡された土橋・・と思います。

 登山道の整備の際に土橋を設けた可能性もあり得るので城の遺構とは判断がつきませんでした。

 

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 2の郭に残る土塁線。よく残っています。

 

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 2の郭 内部の様子。

 郭内部は良く均された平坦地、それにしても広いです。

 

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 648mの標識。

 標高のさることながら比高があるので、登り降りだけでも城兵の体力がゴリゴリ削られるような気がしますが・・

 

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 こちらは2の郭東側の切岸線から本郭方向を撮影したもの。

 二つの郭の間には、郭間を間仕切る空堀が設けられています。

 切岸ライン下の腰郭状の地形には熊倉山登山道が抜けています。

 この腰郭? は後世の登山道整備によって造られた可能性もありそうです。

 

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 2の郭と本郭を分ける空堀の堀底を進みます。

空堀に「折れ」は設けられず一直線に2つの郭を分けています。

 

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 両郭を繋げる土橋が一本架かっています。

 これは当時の遺構でしょうね。 土橋の両側はシンプルな平虎口で複雑な動線は設定されてません。

 

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 ただし 土橋の脇には周囲よりも高い土塁が巡らせ防備を固めています。

 

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 本郭内部の様子。 こちらも2の郭同様に広い平坦地が確保されています。 

 熊倉城は山頂部を利用して築かれながらも、広い郭面積が確保されており駐屯地としての機能がかなり高い印象です。

 

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 先ほどの土橋脇の土塁を本郭側より撮影。

 

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 こちらは本郭東側の土塁線。

 切岸ラインより少しセットバックして土塁が設けられているのが特徴でしょうか。 

 

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 本郭側より撮影した3郭との間仕切り用の空堀

 土塁は伴っていなかったのか地形的には確認できませんでした。

 

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こちらは3郭より先の空堀遺構。
 ジグザグに尾根を登る登山道と熊倉城遺構が混じりあって、本来の動線が判り難くなっているのが残念な所ですが、この空堀だけは明瞭に遺構と判断がつきました。

 

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 尾根に対して弧を描くように堀切状の空堀が巡らされています。

 

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  その先は明瞭な遺構はなく幅の広い尾根が続きます。

 

 

 熊倉城の評価は 4 とさせて下さい。

  熊倉山登山道と城本来の動線が交錯して、縄張りがやや判り難い部分があり城好きとしては少し残念な所ですが、遺構自体はほぼ無傷で残されています。

 

 年代的に古いのでやはりシンプルな縄張りという印象を感じましたが、3郭先の円弧状の空堀は丸馬出しのような機能でも果たしていたのかと妄想できるほどの造りをしてます。

 

 また 麓からの比高300mを超える深い立地ながら、広い郭面積を確保させている点も熊倉城の特徴でしょうか。

  

 少数で城に籠って抵抗するという用兵ではなく、ある程度の兵力を駐屯させて、ここを出撃拠点とした使い方をしていたように思えます。