辛垣城・桝形山城3 の続きです。
今回で最終回、桝形山城主郭から辛垣城を目指します。
桝形山城 堀切
再び余湖さんのHPから縄張り図を借用させてもらいまして
主郭である1の郭から尾根を登りまずは物見山を目指します。
こちらのハイキングコースから下って
1廓を見上げて撮影。
小ピークを上手く利用して普請されてます。
その先の2廓
尾根上を削平化した小郭で
更にその先のB
虎口+堀切土橋の超が付くほどの厳重な備え。
土橋を渡って振り返り撮影。
凝った縄張りですね、土橋を渡った先に桝形の虎口が待ち構えてます。
ここを見る限りは、尾根を駆け下って来る敵から1廓を守る意図を強く感じ、つまり辛垣城方向からの逆襲を警戒して設けたように思えます。
ならば枡形山城は後北条氏の城?
その先しばらく自然の尾根道を登ります。
主尾根の小ピーク、つまり物見山の手前で
何か出てきました。
尾根上に普請された段郭群です。
画像正面は段郭の切岸。
さらに上の段郭
段郭群を見下ろして撮影。
各郭間の切岸の高さはさほどではなく、防衛より平坦地の確保が優先されたような縄張りに感じます。
つまり、尾根を下った先の桝形山城が味方である事が前提の縄張りに思えます。
ならば桝形山城は三田氏の城?
Bの虎口とは正反対の印象しか受けません・・・
桝形山城の立ち位置問題。 確かに難しい、結局どっちなんでしょう?
まぁ、ここは専門の方にお任せするとして先に進みましょう。
物見山の小ピークが見えてきました。
幅の狭いピークに見えますが恐らく採掘で削り取られて痩せ細った結果。
標高は 約405m
約を付ける所がポイント。
ちなみに余湖さんのHP縄張り図の「物見山」は送電線鉄塔のある小ピークを指してますが、この標識のある「物見山」はそのやや東側、「桝形山城」から延びる支尾根と主尾根の結節点にあります。
脇から撮影した物見山の小ピーク。
恐らく山腹の「側」だけ残して削り取られであろう垂直岩盤地形です。
少し省略して 辛垣城に行きます。
主郭方向と巻き道との分岐
前回は右上の主郭方向から降りてきましたが、今回は左手の巻き道を辿り各支尾根(南方尾根・南西尾根)に残る辛垣城の遺構群を見ることにします。
巻き道にある縄張り図に再度登場してもらいます。
赤いラインが巻き道
巻き道から見上げた主郭方向。
天然の切岸というべき急こう配。
こちらは支尾根上に設けられた段郭
その脇に残る石積み遺構。
近代の石灰岩採掘時代の遺構のように思えます。
南西尾根上に普請された郭。
郭の先の切岸遺構。
この先は尾根筋の作業道が消えかかっているので引き返して南方尾根に移動します。
こちらは巻き道から撮影した南方尾根上の段郭。
ただし南方尾根は石灰岩の搬出路であったようで辛垣城時代の地形から大きく改変されている可能性がありそうです。
段郭内には石灰岩採掘当時の建物の跡と思しき遺構が。
倉庫の壁? 石をモルタルで固めてありますね。
城の遺構らしくないですね、建物の基礎部分が多く残されてます。
このまま南方尾根を下って二俣尾駅を目指し下山します。
尾根を下った先、鉄塔が設置された郭。
その先の藪の中には、余湖さんのHPで火薬庫跡と記載された遺構が。
採掘で用いられた火薬の保管所なので辛垣城とは無関係な遺構です。
擂鉢状の窪地で、1か所設けられた開口部には石積みが見られます。
事前情報が無ければ辛垣城の遺構と見間違えそう。
その先は尾根道を下りますが
尾根沿いにはコンクリで造られた土台状の遺構が複数あります。
土台4個で1セット。
恐らく南方尾根上にロープウェイのような施設を設けて、採掘した石灰岩を搬出していたのでしょう。
ちなみに登山道はやや荒れ気味。
あまり利用されないルートのようです。
麓が見えてきました。
と、いう事でスタート地点まで無事戻れました。
最後に今回のルートのおさらいです。
所要時間
二俣尾駅 - 30分 - 枡形山城主郭(滞在30分) - 20分 - 物見山 - 10分 - 辛垣城(滞在40分) - 30分 - 二俣尾駅
合計2時間40分
2城のまとめ
辛垣城・桝形山城の評価は どちらも 3 とさせて下さい
どちらも3にしたのは遺構単体の面白味に加えて日帰りハイクの楽しさ、両城の関係を妄想想像する余地を踏まえての評価です。
また、後北条氏と地場の国人領主三田氏との戦いの舞台という歴史的な事実も見逃せません。
冒頭でも触れたように多くの城跡は築城者はおろか名前すら現代に伝わってないので、戦史に登場する城郭遺構はそれだけでも高評価。
ただ、辛垣城は近代の採掘によって主郭部がごっそり消滅しているのは大変残念な点ではありますね。
桝形山城の立ち位置問題ですが
本文でも見る位置によって三田氏・後北条氏どちらの城とも見えてしまう点は触れました。
が、 一応ここでは辛垣城と連携運用された城郭、つまり三田氏側の城であったのではないか?
と、誠に勝手ながら決めつけてしまおうと思います。
根拠(妄想)はこれ
物見山直下の稜線上に残る段郭群の存在。
段郭下に位置する桝形山城が敵方であったら、もっと鋭い堀切等で厳重に稜線を遮断すると思うんですね。
これは桝形山城の防禦力に依存した段郭群に思えます。
また、この位置に段郭だけ普請されるのもちょっと不自然かと。
例えば直上の物見山に採掘で失われた辛垣城と関連する城郭遺構があったとしたら。
その採掘から逃れた一部の遺構が今残る段郭だとしたら。
それならここだけに段郭が存在する理由にもなりそう・・・と根拠はありませんが。
最後に
登山道は日帰りハイクルートとして良く整備されており特に辛垣城ルートは雷電山からの縦走ルートとして多くの人が訪れています。
都内から近い訪問難易度の比較的低い山城遺構としてもお勧めできる両城です。
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