ちょっと山城に (正規運用版)

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志村城 (東京都 板橋区)

志村城

 
訪問 2017年 10月
 
駐車場 無し
案内板 有り(縄張り図無し)
 
 都内の城郭紹介は6年振り位になりますね。特に23区内の城郭紹介は7年前のお台場以来となります。
 市街地化が特に進む23区でも江戸城やお台場以外にも城郭遺構は残っているのですが、近いと「いつでも行けるから」という事で案外と訪城しないもんです。
 
 
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   志村小学校脇
 
場所は以下のURLを参照して下さい。
 
 

 
 都営地下鉄三田線志村三丁目駅」から100mも離れてない、地下鉄で訪城できる稀有な中世城郭です。
 
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現地に縄張り図の掲示が無い為、「東京都の中世城館」より図を借用。
 城の立地としては、西に向かって突き出すような舌状台地を空堀によって1~3郭に間仕切った構造になります。
 
 空堀は単純な直線ではなく折れを交える等の技巧的な構造が見られるものの、全体的には地形そのものの要害性に依る古い構造の城ですかね、かなり前の記事ですが朝霞市にある「岡の城」との類似性を感じました。 
 
 
 現状の志村城の遺構は都心部の城郭の宿命として市街地化が進み現在では2郭にある熊野神社裏手に堀の一部を残すのみとなります。
 
 
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では早速、2郭跡と伝わる熊野神社からお邪魔します。
 
 
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鳥居脇にある志村城跡の石碑と説明板。
 
 
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説明板の拡大画像、この画像も拡大できます。
 ここに登場する千葉自胤・千葉信胤 は字のまま現在の千葉県の北部を地盤としていた千葉氏一門ですが、この頃千葉家の御家騒動亡命政権のような状態でした。
 そんな訳でしてこの志村城もその当時の反抗拠点の一つと考えられているようです。
 
 
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ともかく熊野神社に来たからにはお参りを済ませます。
 
 
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空堀跡へはこの辺りの藪をかき分けて進みます。
 
 
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空堀は風化が進んでいるか浅く不明瞭になっています。実際に訪れれば堀の跡と判りますが画像ではほぼほぼ藪写真ですね。
 
 
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空堀の「折れ」部分の画像なんですが・・・判らないですよね、写真技術が拙く申し訳ない。
 
 
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堀底から1郭方面を撮影。 小道両側の擁壁が堀と土塁の断面になります。
これなら堀跡と判りますかね?
 志村城の明瞭に残る遺構はこれだけです。 いや元々舌状台地の地形を最大限に利用した城郭と思われるので横矢だの土の城の定番と呼べるギミックは少なかったように思えます。
 
 
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遺構はこれだけなので熊野神社の紹介に戻ります。
 ここは社殿脇にある絵馬殿。引き戸が開いて古い絵馬が自由に見られるようになっています。
 
 
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絵馬を撮影。 歴史を感じさせる絵馬が幾つも展示してあります。 
 それにしても絵馬、大きいですね。
 
 
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その解説板の拡大、この画像も拡大できます。
 かなり貴重な絵馬なんですね。 
ちょっと気になったのですが、かなり貴重な絵馬の割には管理が性善説過ぎると思われ・・気軽に見られるのは有難いのですが世の中には「不心得者」も一定数存在する訳ですし。
 
 
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最後に、1郭跡と比定される志村小学校南側を撮影。
 道路との比高は10m近くあり、志村城の立地が天然の要害地形であっと事を偲ばせます。
 

志村城の評価は 2 とさせて下さい。
 
都内で遺構が現存しているだけでもかなり貴重な存在。
 遺構の大半は失われていますが、築城の理由と言うべき要害地形は市街地化が進んでもそのまま坂道や急斜面として残されています。
 その辺りの雰囲気を感じるだけも都内で手軽に中世城郭を味わえる貴重な遺構と言えるでしょう。