能見城
訪問 2022年 8月
駐車場 無し(付近あり)
案内板 無し
山梨のあまり知られてない城郭の紹介です。
能見城は、武田勝頼が築いた「新府城」北方約1キロに位置し、新府城北方の防衛ラインの一翼を担ったと伝わります。
穴山駅前から「能見城」を見上げる
場所はいつものようにグーグル先生にお任せ
県道17号(七里岩ライン)の旧道沿いに、能見城の築かれた「流れ山」は存在します。
こちらは同じ能見城を国土地理院地図の「陰影起伏図」で現したもの。
一見すると天然自然の独立丘に見える「能見城」ですが、夥しい数の人工的な段々によって地形は改変され尽くされた様子が判ると思います。
形状から耕作地化の跡にも考えられるので何でも遺構に見える病 の発症に留意?しながらの見学が必要です。
また、縮尺をマイナスすると能見城は八ヶ岳から槍のように伸びる台地上に位置するのが判ると思いまます。
この台地は「七里岩台地」と呼ばれ八ヶ岳からの岩屑雪崩によって生じた台地で、東西を河川の浸食による崖地形が7里あまり?続き先端部は韮崎の市街地「平和観音」まで続きます。
台地上には幾つものこぶ(流れ山)が目につくと思います。
能見城や新府城は、台地上に残るこぶを利用して築城されてます。
ではうんちくはこのくらいにして
能見城にお邪魔しましょう。
スタートはこちら中央本線の穴山駅です。
電車での訪問ではなく
駅舎左手の公園駐車場に車を停める為です。
「穴山さくら公園」駐車場から見上げた能見城。
ここ、公園の規模に似合わない大きな駐車場なんですね。
ご覧のように駐車場は賑わってながらも公園には全然人がいないので・・無料の公共駐車場としての利用が大半なんでしょう。
さて こちらは穴山駅に掲示されている周辺観光マップ
桃のマークと共に下端に「新府城」も掲載されてますね。
地山の規模では能見城の方が大きいのが意外。
能見城の東側にある「御名方神社」には七里岩台地を横断する防衛ラインの一部が残されており以前見学した事があります、懐かしい・・
同じく駅前に掲示されている「穴山氏」の紹介。
穴山氏と言えば、織田による甲州征伐の際に勝頼を裏切った「穴山梅雪」が思い浮かびますが穴山氏の出自はこの地のようです。
駅前の掲示物については穴山氏の紹介が多く
能見城についてはこれだけでした。
縮尺が滅茶苦茶ですが新府城の防衛プランは判ります。
新府城は単独で機能していたわけではなく能見城が要となる北方の防衛ラインと、河川浸食によって生まれた断崖地形を利用した巨大な城郭であったことが判ります。
さて
穴山駅から真っすぐ進むと擁壁に描かれた「能 見 城 跡」が現れます。
入口はここではなく
擁壁を右に折れて
こちらの林道
能見城のある丘陵には林道がらせん状に山頂まで伸びてます。
林道を道なりに登ります。
段郭状の地形がありますが・・多分耕作地などによる地形改変でしょう。
竹林の奥に微妙に城郭遺構のような平坦地が幾つかありますが とても歩けたものじゃないほどの荒れ模様。
冬枯れの時期に訪問したら、遺構らしいものが判るかもしれませんが
山頂付近はまとまった平坦地になってます。
能見城の主郭部にあたると考えても良さそうです。
山頂の何かの施設と「能見城址」の案内
守屋一族発祥の地 の石碑
その反対側には無人のお寺があり
その先まで続く平坦地は山頂部の主郭跡と断定してもいいでしょうね。
城郭らしさは醸し出されてますが、遺構らしき地形はあまり感じられませんでした。
能見城の評価は 1 とさせて下さい。
城単体の評価はちょっと辛めです。
が、御名方神社裏に残る北方防衛ラインとセットで見学して、新府城の防衛プランを妄想するのが適切な見学方法でしょう。
所で、新府城の防衛なら武田勝頼が築城整備を命じたのかと思えば、史実では異なるようです。
本能寺の変後に起きた旧武田領を巡る北条vs徳川氏の戦い天正壬午の乱の際に南下する北条氏に対し徳川勢が活用整備したとも推測されるようです。
肝心の遺構ですが、後世の改変と思われる地形や林道整備もあり、どれが能見城の遺構なのか判別し難い状況です。
写真掲載は割愛しましたが、崩落したコンクリート擁壁を伴った段郭状の切岸地形もあり、遺構に見える耕作放棄地もかなり存在するように思えます。
地元の方からも 「何もない」 と言われる能見城ですが新府城を軸に七里岩台地を利用した防衛態勢を妄想するには中々面白い所かも知れません。