葛西城
訪問 2022年8月
駐車場 無し
案内板 有り
環七の下に眠る戦国の巨大城郭
再び都内のお城紹介です。
今回のお城は葛飾区の葛西城。
国府台合戦など関東戦国史に於いて度々登場する葛西城ですが、開発によって今日では遺構と呼べる遺構は残っていません。
冒頭から興味を引かせる事 書いてますね・・
中川堤防より
場所はいつものようにグーグル先生にお任せ
環七と日光街道が交わる「青戸の陸橋」と言えば、判る人が多いでしょう。
そんな交通量の地下に中世城郭が眠っているのは案外知られてない事実かもしれません。
さて 葛西城の歴史については現地の案内板を転記しましょう。
葛西城
葛西城は中川右岸に沿った標高1~2m前後の微高地上に占地し、その範囲は青戸8丁目宝持院付近から青戸7丁目慈恵医大青戸病院付近に及ぶものと推定される。
- 中略 -
葛西城の立地する葛西地域は、中世に於いて秩父平氏の流れを汲む葛西氏によって治められ、私領の一部は伊勢神宮に「葛西御厨」として寄進されている。
葛西城の築城がいつ頃なされたかは古文書からも定かではないが、中世におけるこの辺一帯の政治情勢や出土した遺物から、15世紀中頃と推定される。
15世紀末、伊豆、相模方面を舞台に台頭してきた後北条氏は北条早雲の子、北条氏綱によって関東進出が企てられ、天文7年(1538)葛西城は氏綱の手に陥落、下総に勢力を張る足利義明に対する構えとして整備されたことが知られる。
その後、天正18年(1590)小田原の役に於ける後北条氏の滅亡と同じくして葛西城も落城し、中世城郭としての役目も終えるのである。
近世初頭、徳川家康の江戸開府後、葛西城跡地には「青戸御殿」が建てられる。
青戸御殿は秀忠、家光の3代に渡って鷹狩等に利用された後、明暦3年(1657)頃取り壊されたといわれている。
- 後略 -
では 早速葛西城にお邪魔しましょう。
さっそくですが既に 葛西城主郭部に到着してます。
ここは、環七青戸陸橋手前、この辺りに葛西城の主郭がありました。
城らしさは当然皆無ですが、ひとまず正面の公園に向かいます。
こちらがその御殿山公園
幹線道路沿いのなんの個性もない公園ですが
葛西城跡の案内が出てますのでこちらを見学して葛西城の訪問とします。
こちらは現地縄張り図です。
環七はいつも使うのであまり悪く言いたくなのですが・・真ん中を貫いてますね。
詳細にみると、生活道路や土地の境界は未だに葛西城の影響を残してます。
参考用に
国土地理院先生の航空写真(1945~1950年頃) を入れ込みました。
当時は亀有と青戸駅付近を除くと水田地帯であったことが判ります。
またその中でも、葛西城のある中川西岸だけは畑作地であった事も航空写真から見て取れます。
畑作地 = 周囲より標高が高い の法則?を適用すると
葛西城は、中川が造りだした微高地を利用していたのが確認できます。
残念ながらこの当時既に葛西城は航空写真で判別できる遺構は失われていたようですが、道路や畑地、屋敷林の配置などから辛うじて縄張りのイメージが(妄想力全開で!)できそうです・・・
公園内の「青戸藤綱城跡」 の石碑
さて
もう他に見るものがないので
葛西城のイメージを求めて中川に向かいます。
堤防上から中川を撮影。
中川の流路は城の現役の頃と同じなんですかね?
少しだけ「水郷に浮かぶ葛西城」のイメージが掴めた気がした所で葛西城の紹介は終わりです。
葛西城の評価は 1 とさせて下さい。
言わずもがな遺構は地下に埋もれ痕跡探しすら困難な状態で、できる事と言えば石碑を見て古の葛西城を妄想する程度。
周囲の環境も市街地化によって様変わりして、城の縄張りや遺構・当時の環境を楽しむ(妄想する)のは私には難易度が高すぎたようです。
歴史的舞台の訪問と割り切るしかないかも。