関城
訪問 2016年 8月
駐車場 有
案内板 有
今回から久しくご無沙汰の茨城県の城郭を紹介したいと思います。
初回となる今回は筑西市にある関城です。
そして、貴重なのが当時の城攻めの際に造られたという坑道跡が残っている点でしょう。
城に向かって掘られたというトンネルの実例が発見された例はかなり貴重なのではないでしょうかね。
畑の中に一部が残る関城土塁
場所は以下のURLから参照して下さい。
東西南を低湿地(現在は水田地帯)に囲まれた細長い舌状台地の先端部分を利用して関城は築かれています。
訪問は城北側に東西に走るグリーンラインから行くのが判り易いです。
デイリーヤマザキのある交差点を南に真っすぐ進むと、やがて集落に至ります。
その手前付近に訪城者用の駐車場と現地案内板があります。
トイレも完備した駐車場の様子。 大型トラックも停められる程の広さがありますが車は私のが1台のみ・・
トイレ脇の案内図を拡大します。 現在位置が駐車場。
城の歴史については一切記述がありませんねぇ・・
駐車場脇にある坑道への案内
まずは こっちから見る事にします。
少し歩くと現れる坑道跡の案内
農道脇の目立たない所にあります。
文字が小さいので転記しますね
坑道跡
南北朝時代、北朝方の高師冬(こうのもろふゆ)は、関城の物見やぐらを攻め落とすために抗夫を募って地下道を掘ったあとです。
師冬勢が城の東北部から城に向かって坑道を堀りはじめました。
これに応じ城兵も外に向かって堀り進みました。
しかし師冬勢の坑道は地盤が軟弱だったために落盤し、双方共坑道戦は中止したといわれています。
この坑道あとは大正9年9月、関館の青年2名が関館八幡宮西部里道の側面に偶然発見して世に知られるようになったもので、日本3坑道の一つとして戦史上貴重な勝ちを有するものです。
坑道の形式は、無枠、アーチ型に高さ約2メートル、幅1メートルに短柄鍬で抗夫が掘ったものです。
で、これが坑道跡です。周囲はコンクリで補強されていますが奥に説明書きにあるようなアーチ型のトンネルが残されています。
まぁ今まで良く崩れずに残っていたものです。
因みに中には入れません、立ち入り禁止にされています。
引きのアングルでもう一枚。 穴は地表から浅い位置ですよね。
しかし、籠城側はどうやって坑道戦術の事を察知したのか・・対抗して穴を掘り進めたからには、坑道戦術への対抗手段が確立していたという事ですかね?
だとしたら割合良く使われる戦術だったんでしょうか。
坑道の前から筑波山を撮影。 いい眺めです。
坑道だけでは勿体ないので城郭遺構も見学していくとこにします。
これは案内図「現在位置」から真南に進んだ所にある空堀跡。
風化の為か浅くはなっていますが堀幅はかなりのもの。
先ほどの空堀東側末端部に残されている土塁の一部。
集落の中で大変目立ちますが残された範囲が少ない・・
タイトル画像のも載せた畑の中に残された土塁の一部。
案内図でいう所の「筑西市」の市の文字の右側にある点線の土塁線の僅かに残存する土塁です。
畑から一旦戻り、集落を縦貫する道路を南に進み舌状台地南端を目指します。
南端の水田地帯まで降りて北側を振り返って撮影。
この道は関城通りと名付けられているようです。
南端から城東側の縁を散策します。
城中心部を撮影したものです。
この辺りはなだらかな斜面になっており城らしさは残っていません。
ただし画像中央奥に畑に残された土塁の一部が写っています。
東側 八幡神社境内には遺構らしき地形が残されています。
関城の評価は 3 とさせて下さい。
縦郭遺構自体はかなり風化と破壊が進んでおり一部の土塁と空堀が残されるのみですが、かなり珍しい坑道戦術の実証例が見られる点は高評価かと。
ところで、
中世城郭好きになる、この世界に嵌った人には何かのきっかけがあると思いますが私の場合は実はこの関城なんです。
日本に数多ある中世城郭の中で初訪問がなぜかここ。
世間でネットが普及し始めた頃、当然今のような城郭サイトやら個人のブログ等ない時代、何となく行ったんですね関城入口という道路看板に魅かれて・・それも仕事中です(笑)
普段はうるさい(失礼)上司と営業周りをしていたのですが、偶然同僚と回る日がありまして、新人同士の気安さで営業なんかほぼサボっていた所、関城の看板を発見。 会社に戻るには早いので見てみようや・・と、本当にどうしょもない新人でしたね(笑)
ただどれが土塁だか堀だかも全く分からず・・あの畑の中にある小山は何か城と関係あるのか・・位にしか思っていなかったですが。