福与城
訪問 2015年 7月
駐車場 有(乳母屋敷廓)
案内板 有(駐車場)
今回から長野のお城を連載します。
初夏7月に長野は伊那方面に出撃致しまして、3城訪問しました。
折角の遠征なのでもっと数多くのお城を見て回りたかったのですが、どうしても1城辺りの滞在時間が多くなってしまい数をこなせませんね。
前置きはこの位にして、今回取り上げるのは伊那谷北端部に位置する「福与城」です。

位置は下のURL を参照して下さい。

福与城は大きなおにぎり型をして、南東以外は先に説明した険しい天然の要害によって守られています。

この時、午後2時頃。 梅雨明けの強烈な日差しにあぶられてとにかく暑い~ 城域は畑地となっており日陰がないです、この時既に汗だくになっています。
所で、福与城の現地案内板を抜粋して紹介します。
長野県史跡跡 福与城跡国人領主連合と戦国の雄武田氏との激戦の舞台となった福与城ですが、その後は武田氏の勢力下に置かれましたがそれ程重要視されなかったそうです。
規模
この城跡は本城・北城・南城を中核とし権次廓・物見櫓跡・乳母屋敷・宗仙屋敷・赤穂屋敷等の遺構を持つ大規模な平山城である。
本城は第一廓(主廓)第二廓に分かれ主廓は北は浅い空堀で北城をひかえ、南は深い空堀を隔てて細長い南城に面し、東は鎌倉沢の谷に臨んでいる。
第二廓は主廓の西型崖下に位し、南北二段よりなり、大手口はこの面にあたる。
搦め手の豊口に近く二条の外堀が見られ、水の手をここにもとめ、町やは初め福与に、後、三日町に設けたようである。
説明
この史跡は鎌倉幕府に勤任した藤沢氏(神氏系)が室町中期から蓑輪郷を中心に此処を根拠に威勢をふるっていた。
その後天文14年3月(注1545年)、諏訪・高遠を攻略した武田信玄は、伊那谷への侵攻を策し、その門戸に位置するこの城に迫った。
城主頼親は上伊那衆を結集して連日激戦をなし、更に深志の小笠原長時及び小笠原・知久氏等下伊那衆の来援をもとめたが空しく籠城50日遂に6月、舎弟権次郎を人質に開城し、城は放火破壊され頼親は流浪の身となった。
かかる痛ましい歴史を秘めたこの城跡は藤沢氏以降改修をまぬがれ、ほぼ戦国期の原型を今日に遺している事で貴重な城跡である。
という事は案内板にもあるように国人領主級の築いた戦国前中期の城郭構造がほぼそのままの状態で残されているといってもいいかも知れないですね。

説明はこの位にして早速城内部へと散策します。
草ぼうぼうの時期の為、遺構の写真映りは悪いです。
こちらは 南廓から主廓方面を撮影。
因みに南廓以下外縁部は現在耕作地化されており、城跡らしさは控えめです。

トンネル付の珍しい土橋、この時丁度堀底で作業されてました。
トラックのお陰で堀の規模が良く判ります。



南廓と乳母廓は一面の畑でその境界は不明瞭になっています。
地形は平坦ではなく東(画像右側)に向かって緩勾配が残されております。



手前浅くなっていますが空堀を隔てて北廓側は一段地形が低くなっています。
北廓は広大です、既に暑くて仕方がない頃なので奥までは行ってないです。


かなり埋没して緩い勾配になっていますが堀幅はかなりあります。




福与城の評価は 3 とさせて下さい。
縄張りは可能な限り自然地形を利用して堀は比較的ざっくりと刻まれています。
一つ一つの廓は大きくゆったりとした印象でとても激戦を経た城郭らしさがないのですが、何故か結構お気に入りの城郭ですね。
隅々まで見ていない鍛冶廓とその外側も含めて気候の良い時期に再訪問したい城郭の一つです。