ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

鷲城 (栃木県 小山市)

鷲城
 
訪問 2015年 2月
 
駐車場 無
案内板 有(鷲神社鳥居前)
 
 
 久しぶりに栃木の城郭を幾つか紹介します。
本年2月に小山市界隈の城郭を3つ巡りまして、今回はその内の一つ「鷲城」です。
 この辺りは関東平野のど真ん中、土地の起伏に乏しいのですが、城は北と西側を思川の段丘を利用して築かれています。
 
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                        鷲城(内城側)空堀
 

 

 

 

 場所は この辺り。 
 50号バイパスの脇にあり車での訪城は極めて容易です。
城東側に鷲神社の鳥居と城案内板があり、ここからの訪城となるのでしょうが、生憎周辺には駐車場はありません。
 
 鳥居前の道がそれなり道幅があり今回は路上駐車をさせて貰いましたが・・一応路上駐車はお勧めできないので鷲城に隣接する小山総合公園に車を停めるのが無難と申し上げておきますね。
 
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 城域は内城と外城に分かれています。 内城が主廓で外城が2廓となるのでしょう。
 内城にある鷲神社への参道から訪城はスタートします。
 左側の石灯篭奥に鷲城の縄張り図が掲載してあります。
 
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現地案内板を掲載します。
 ※があるように図は南が上です。
構造としては2重に孤を描くように空堀が巡らしてあり、複雑な縄張りではないようです。
 
ここで鷲城の由来を現地案内板から抜粋し紹介します。
 
史跡  鷲城跡

康歴2年(1380)から永徳元年(1382)にかけて小山氏10代の義政は、3次に渡って関東公方足利将軍家の分家)足利氏満の軍勢と戦いました。
 「小山義政の乱」と言います。

 この乱の原因は、勢力を拡大した小山義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされ、その指令を受けた関東各地の武士たちが、小山に攻め寄せました。
 
 最初の蜂起で館(神鳥谷の曲輪か)を攻められた義政は、二度目の蜂起となる康歴3年には鷲城に立て篭もって戦います。
 しかし義政は結局敗れ、その翌年粕尾(粟野町)で自殺しました。

 鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、内城と外城との2つの廓からなり、当時としては広大な城郭でした。
 
 中城の空堀・土塁が明瞭に残存し、鷲城の名の由来となった鷲神社が鎮座しています。
 
 南北朝時代の城郭がこれほどよく遺存し、関連する文献資料が多数伝来しているのは極めて稀な例で、貴重な史跡と言えるでしょう。
南北朝時代、当時の姿をそのまま留めているのかはちょっと疑問ですが、というのも後で紹介しますが、堀の規模が尋常ではない位深いんです。
 後々の時代に改修を施されたんじゃないでしょうかね。
 
 
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まぁ、素人の推測はこの位にして 早速鷲城に進みます。
鳥居をくぐると鷲神社までは見事な並木を伴った参道が続きます。
 参道脇の土塁は・・すいません畑の畔と勘違いして撮影してません。
 
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参道から撮影した中城の様子。
 畑奥の雑木林が空堀の辺り。 堀際まで行きたかったのですが、畔道もなく断念。
 
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鷲神社の様子。
 お社も中々良い雰囲気を醸し出しています。
 
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鷲神社裏側から撮影した思川。
 川面までの比高差はかなりあり、此方側から城へ攻め寄せるのは極めて困難でしょう。
 
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「虎口」から 総合公園側に降りてみます。
 
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運動公園とは繋がっています。 左手は空堀土塁。
 
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運動公園から鷲城を見上げて撮影。
 公園との比高差はかなりのもの。
 
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先の空堀土塁を左折すると 内城の空堀堀底に進めます。
 画像左側土塁の先が運動公園。 土塁の高さは現状堀底から2m程度強。
 画像右手が鷲城になりますが、比高差があり過ぎて画像に納まりきれていません。
 
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見事な規模の空堀が延々と続いてます。 手堀りでここまで台地を堀る労力はどれほどのものか・・
 このスケールには驚かされました。
 
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外城郭内は宅地化が進んでいますが、土塁と空堀は道路沿いに残存しています。
 

鷲城の評価は 3 とさせて下さい。
 
外城域まで含めると鷲城の城域は実に広大です。上の画像道路を挟んで東側の遺構は残念ながら消滅していますが、大規模な空堀など見所が多い城郭遺構です。