続きです。 今回は山名城の紹介です。
山上碑を後にして 高崎自然歩道がなぞる尾根道を歩くこと10分ほどで 山名城の入口に到達します。
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現地案内板より 山名城の紹介を抜粋します
山名城址
源義家の孫新田義重(1116~1202)の孤義範は、この城に拠って山名氏と称し、以後8代山名城を護ったという。
東西450m、巾の最も広い所は2の丸の部分で南北130m、この城は築城法からみて、弓矢だけでの時代ではなく、鉄砲が使用された時代の普請であることがわかるそうである。
南北朝時代信濃南朝方の関東での橋頭保として、寺尾上城(乗附)、中城(寺尾)と一連の名称で寺尾下城とか前城とか呼ばれている。
それにも関わらず前2城より遥かに進歩した築城法によって造られているのは、この城が戦国時代になって、木部城の要害城として改築された為である。
自然歩道との分岐点です。
東西に延びる尾根道から 山名城のある支尾根に進みます。
200mというのは恐らく主廓までの距離ですね、看板のすぐ奥から堀切が既に存在しています。
ちなみに1.1キロ先にある根小屋城跡までは徒歩で15分位、両城の関連性がうかがえます。
尾根沿いに展開する廓群を左手に見ながら主廓を目指します・・・が 道がかなり怪しいのです・・途中で道筋が怪しくなり遂に消えてしまいます。
実は途中で本丸直下の堀底に道は折れていたのですが曖昧な道筋の為気付かず直進していたようです。
尾根道からの分岐点にあった縄張り図を掲載。
図の左手から本丸を目指します。
基本的には尾根筋を堀切って尾根部を削平化して廓に造成したいわゆる連廓式の縄張りというやつですかね、全体的にはシンプルな造作に感じました。
左手を見上げて堀切を撮影。
本丸手前の廓内は一面の樹木と下草で撮影どころか侵入も困難な状態。
一応撮影したのですが・・・正直言って藪だけが写っている状態でとても掲載できる代物ではありません。
堀切か虎口らしき箇所を撮影。 本丸以外はこのように風化がかなり進んでいる様子。
道が途絶えたので仕方なく切岸面を強引に登攀。
登りついた先は2廓。
廓内は御覧のように一面の雑木林、2廓東側の堀切は非常に規模も大きく見事な造りなのですが、残念なことに灌木が凄まじくこれは実物を見て頂くしかないようです。
堀切を渡り本丸を目指します。 法面は緩く、深さも3m弱程度。 元々浅い造りだったのか。
本丸は下草も刈られ綺麗に整備されています。
簡易的な展望台もあり。
展望台からの眺め・・目の前の森が邪魔してそれ程良くありませんが、本丸北側の様子が良く解る特典があります。
廓周囲には土塁は元々なかったのか、確認出来ませんでした。
本丸にある石碑です。
本丸に掲示されている手書き資料 城の名前が何故か伏せ字になっています。
クリックで拡大できます。
山名城の評価は 3 とさせて下さい。
全体的な縄張りとしてはシンプルな構造で小ぶりな城郭ですが後世の破壊を逃れて完全な形で残されているのが好評価かと。
できれば本丸以外も下草の伐採がなされたらより良い状態で山名城の遺構が見られるのですが・・大変な労力になりそうですので贅沢は言えませんね。
次回は根小屋城の紹介です。
少し触れますが、根小屋城は武田氏が上州攻略の為に築いた前線基地でして、これがまた凄まじい縄張りを持った城郭なんです。