ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

国府台城 (千葉県 市川市)

国府台城
 
訪問 2014年 8月
駐車場無 (コインパーキング付近にあり)
案内板有
 
 初の千葉県のお城紹介です。 
 ブログ開設5年、牛歩の歩みで更新してきましたがやっと関東全県網羅(数はともかく)達成です。
 
 さて、今回の国府台(コウノダイ)城、お城そのものよりむしろ国府台合戦の舞台として名が通っています。
 
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国府台城 土塁跡(基部石垣は公園整備時のもの)
 

 

 

 
現地案内板の内容を抜粋します。
国府台城

国府台城は標高20~25mの下総台地の西の端で、江戸川に並行して南へ張り出した大きな舌状の丘陵であり、現在の里見公園の中に土塁状の城郭遺構が現存している。
そして公園の北に向かっても城郭の遺構らしきものが確認される。
公園内の遺構は破壊が激しく、築城の時期を想定することは難しいが、大田道灌の時代よりは後の時代に属する、とする推測もある。

この地は、天文と永禄の2度に渡り、小田原の戦国大名北条氏と安房の里見市らにより行われた合戦、いわゆる国府台合戦の舞台となっている。

天文7年(1538)の合戦は、北条氏綱小弓公方足利義明・里見義堯らが戦ったもので、小弓(千葉市)に拠を定めた義明と北条氏が担ぐ本家筋の古河公方との戦いである。
これに対して、永禄7年(1564)の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、これに抵抗する里見義堯・義弘らの戦いであった。

永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友であった正木氏の一族など多くの戦死者を出し安房に敗走する。

現在の国府台城跡は、この合戦の中で激突する両軍の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、初期のものから戦国期の城郭に進化した、とする説もある。
以下略
 
 
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周辺案内図を添付します。 縄張りは・・正直な感想では非常に解りにくいです。 
 公園化による改変やら、旧軍による改変? 元々あった古墳を利用した部分もある為、古墳なのか 土塁なのか非常に曖昧です。
 地形的には、江戸川沿いにある台地を利用して築かれています。
 
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県道からとぼとぼと公園に向かいます。
 
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公園に入るといきなりこのような整備された光景になります。
 
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奥(江戸川沿い)に向かうと土地が一段高くなりその奥に土塁等の遺構が残ります。
 公園整備の際に工事されたと思われる石垣が土塁の周囲に腰巻状に回されている箇所があり、石垣造りの城に見えてしまいそうです。
 どうもこの整備には賛成できません。
 
 
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この辺りの土塁が 最も城らしさを残していますかね。
 
 
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空堀らしき地形。 勾配は浅いながらかなりの規模。
 
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土塁に登ると石棺がありました。 
 土塁と思っていたのは前方後円墳でした。 
明戸古墳と言い全長40メートル・周囲からは埴輪も見つかっているそうです。
当時の国府台城も古墳を利用していたのでしょうね。
 
 
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石棺の位置(後円部)から見る土塁こと前方後円墳
 
 
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湧水があります。 公園内にある羅漢の井戸
 
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立派な大木が茂っていたり、対岸が都内とは思えない程自然が豊か。
 
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「夜泣き石」伝説のある石。
  
 現地案内板より抜粋
 国府台合戦で戦死した里見弘次の末娘が、父の霊を弔う為遥々安房の国から国府台に辿り着き、戦場跡の凄惨な情景を目にして恐怖に打ちひしがれ、傍らにあったこの石にもたれて泣き続け遂に息絶えてしまいました。
 それから毎夜の事、この石から悲しい鳴き声が聞こえるようになり里人からこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになりました。
 その後、一人の武士が通りかかり、この哀れな姫の供養をしてからは、泣き声が聞こえなくなったと言います。
  以下略
 
 件の里見弘次は1564(永禄7年)に15歳の初陣で戦死したとされるそうで年齢が合わないですね。
 また「夜泣き石」は元々 先ほどの石棺の脇にあったそうです。
 
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土塁の上が市川市最高地点。
 
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国府台城から見る対岸の東京。
 国府台の合戦が行われた頃は一面の芦原か・・今の光景とはまるで違っていたでしょうね。
 
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江戸川沿いから撮影。
 川面からの比高差はかなりあります。
 

国府台城の評価は 2,5 とさせて下さい。
 
 圧倒される様な壮大な遺構はありませんが、都内近郊でこれだけ残っているのは見逃せません。
 また公園化整備により通年の訪城が可能な点も高評価と言えるでしょう。