臼井城
訪問 2014年 7月
駐車場 有
現地案内板 有
国府台城に引き続き千葉県のお城紹介がもう少し続きます。
今回は印旛沼のほとりの台地上に築かれた臼井城になります。
臼井城本廓から臨む印旛沼
昨年拙ブログで紹介した flood maps によって海面を5m程高くし、当時の海岸を私的推測によって再現しました。
赤丸が臼井城の位置です。 ヤフーマップで見る現在の地形とはまるで違いますよね。
無論これが築城時の海岸です、とは言いませんが当たらずとも遠からずではないかと、対岸の竜ヶ崎が本当に岬になってしまいますし・・少なくとも当時の臼井城周辺の地形は今とはかけ離れていた筈です。
さて 現在の臼井城は佐倉市によって公園整備が行われ訪城も容易です。
しかし、県外からお城好きなマニアが訪れる事など普通は考慮しないでしょう。
途中案内板もなく非常に解りにくいのでルートを説明します。
国道296号と県道64号の三叉路「中宿」の交差点から北側に1個めの信号(臼井幼稚園の看板有)を西側に折れます(画像は南に向いて撮影)
折れると住宅街になります。十数メートル進み路地を右折。
住宅街を走る事数百メートルで臼井城専用駐車場に到着。
駐車場の奥が土橋になっています。 右手は本廓の切岸。 勾配や高低差が実に見事です。
ここで現地縄張り図を掲載します。
駐車場の位置は「現在位置」ではなくその右側、本丸左側の臼井の切岸を挟んで南側です。
低地に突き出す台地上を廓で区切って先端を本廓とした縄張りになります。
ここで臼井城に関して現地案内板より紹介します
臼井城跡
千葉氏の一族臼井六郎常康が臼井に居を構え、臼井氏中興の祖と言われる興胤(14世紀中頃)の代に、この城の基礎がおかれたと伝えられる。
現在の遺構は15世紀以降のものと考えられるが、城跡は本丸、二ノ丸を中心として、空堀、土塁等の旧態をよく残している。
戦国時代末期には原氏(※千葉氏家臣)が城主であったが、天正18年(1590)小田原落城により、千葉氏と共に滅んだ。
以降坂井家次3万石の居城となって、慶長9年(1604)の転封まで使用された。
大田道灌・上杉謙信軍との攻防戦は有名である。
駐車場から画像左手の石段を登ると2廓から本廓へ至る土橋に出ます。
写真は本廓側から土橋を撮影した所。
土橋の元に掲載された公園整備前の土橋の様子。
うーん、やけに真っすぐな土橋と思ったら お城にとって極めて大事な虎口と一緒に壊していた模様。
整備前の方が断然いいのですが・・・この改変は必要な工事でしたか?
本廓を取り巻く土塁は残っていました。
本廓内部は公園化が進んでいます。
本廓先端より撮影。 アジサイが綺麗に咲いています。
東側は途中腰廓等はなく一気に麓の集落まで落ち込んでいます。
視点を変えて印旛沼を撮影。
当時の水面は城の手前まで迫っていたのでしょうかね。
ここからの眺め、晴れていれば最高のロケーションでしょう。
本廓から北側の腰廓へ降りる虎口に石積み遺構が残されていました。
こちらは2廓の様子。
芝生広場のような公園の敷地になっています。
2廓はかなり広い空間を確保してます、芝生を取り囲む森の奥に空堀が巡らされていますが、藪が酷く写真写りが悪いの掲載しません。
2廓の空堀は公園外側から観察した方が解ります。
惜しいのは樹木が多く堀底を確認出来ない事でしょうか。
道を進むと2廓堀端にあらわれる「太田図書の墓」
太田図書の墓堀外の畑地の脇ですが当時は3廓であったようです。
室町時代の中期、千葉氏一族は、古河公方と関東管領上杉氏との抗争に巻き込まれ、2派に分かれて争った。
文明10年(1478)12月、上杉方の太田道灌は、公方方の千葉孝胤を境根原の(松戸市小金)戦いで敗り、敗退した孝胤勢は、一族の臼井持胤・俊胤の守る臼井城へ逃げ帰った。
翌文明11年(1479)正月、道灌の弟太田図書助資忠と千葉自胤(武蔵千葉氏)の軍勢が臼井城を包囲したが、城の防備があまりに堅固なため、一旦引き揚げようとした。
その時、城兵がどっと討って出て太田勢と激しい戦いとなり、遂に落城したが、図書助他53人がこの地で討ち死にしたという。
臼井城の評価は 4 とさせて下さい。
虎口を壊したのはマイナスですが、公園化の恩恵で開発による遺構の破壊からは逃れられるのは良い点ですかね。
見事な空堀が通年で見られるのも好評価です。