ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

深沢城 (静岡県 御殿場市) 1

深沢城
 
訪問 2013年 7月
 
 更新が延びましたが静岡編の続き、今回は御殿場市の深沢城をアップします。
前回掲載した足柄城を発ち、足柄街道を箱根の山裾を西へ下り御殿場線足柄駅を過ぎると、深沢城のある広大な富士の裾野の一部に到達します。
 
 この辺りの地形は富士の裾野だけあり全体的に西に向かって緩い登り勾配が続き、また中小河川による浸食谷が発達している地形でもあります。
 
 深沢城は、馬伏川・抜川の両河川の合流地点にあり、城の3方を河川浸食によって形成された断崖を利用して築かれた城郭になります。
 
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本廓から見上げる夏の富士山
とにかく蒸し暑かった記憶が・・ この時、足元にシマ蛇がいたんですよぉ~
 

 

 

 

 県道78号足柄街道から少し集落を抜けた所に深沢城はあります。
石碑と案内板のある場所なら路肩が広いので車を停められるスペースがあります。
 
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その石碑と縄張り図がある地点。 案内板の奥は巨大な空堀
 
 
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その空堀を撮影。 深沢城・・見事な遺構なのですが堀底は全く整備がなされていなので、深沢城では、これでも素晴らしく堀底が眺められるアングルなんです。
 
 
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現地縄張り図を掲載。 川の蛇行に合わせた縄張りなので廓の形がかなりいびつになってます。
 ここで深沢城の歴史をさらっと紹介 
 この城は、今から400年ほど前の戦国時代に駿河の今川氏が築城したと伝えられている。
その後、小田原の北条氏が占領して、黄八幡で有名な北条綱成が守備していたが、元亀元年(1570)11月、甲斐の武田信玄が包囲し、金山衆などを使って攻めたてた。
翌元亀2年1月3日、信玄は深沢城に有名な矢文を送って開城を迫り、ついに綱成は藤沢の玉縄城に退き、その後は武田氏が支配した。

北条氏は奪回を試みたが失敗し、深沢城は武田氏の所有となり武田氏の重臣の一人駒井右京之進が城主として居城した。

天正10年(1580)武田氏没落に際し、右京之進は城を焼いて退去した。
やがて天正12年、徳川家康織田信雄に加勢して、小牧山豊臣秀吉と戦った際に、北条の抑えとして三宅惣左衛門をおいたが、それを最後として廃城となった。
以下略
現地案内板抜粋
 武田の駿河侵攻にまつわる攻防戦で歴史上に登場してますが、それ以降は武田方の国境の城としての役割を果たしたのでしょう。
 
 
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さて、案内板の反対側には三日月堀の遺構もあります。

 う~む 今は湾曲した用水路にしか見えないのですが当時はちゃんとした堀だったんでしょうね。
 
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3廓を縦貫する道を北上し
 馬伏川方面に進む事
 にします。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
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3廓内の八幡宮へ入れる
脇道があったので進んでみる事にします。
 
 因みに深沢城は田畑や一部宅地にになっており
 自由に出入り出来る場所は限られていますのでご注意下さい。
 
 
 
 
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登った先の3廓内部の様子。
 一面 田んぼになっています。 田んぼ左手の森の中には2廓と仕切る空堀が見事に残っているのですが・・・全く見えません。
 
 
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八幡宮と呼ぶにはささやかな祠を拝み3廓を後にします。
 
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再び道に戻り、馬伏川河岸に辿り着くと左手(西側)の田んぼに城郭遺構らしき斜面が・・・ 画像右手が馬伏川になります。 
 
        
イメージ 11登り切って振り返り撮影
 
左手橋の下が馬伏川
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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更に振り返ると・・・富士山。 
 
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河川改修で河原が田んぼになったのかもしれませんが、怪しい段々地形が続いてました。

 
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田んぼの奥にあった三日月堀。 堀底は多少埋まっているのでしょうが見事な規模
 でも 草が多くて降りられません。
 
 きりがいいので、この先は次回と言う事で、なるべく早くアップします・・