前回掲載が漏れていた岩櫃城の歴史について、現地案内板の抜粋で紹介します。
岩櫃城は岩櫃山(標高802m)の中腹東面に築かれた典型的な中世の山城であり、山頂より約200m低い場所に本丸・二の丸・中城があり、これらを中心に広い範囲で竪堀や郭が点在します。
岩櫃城はその築城時期や築城者については定かではないが、文献によれば南北朝の時代に初めて岩櫃城主吾妻太郎行盛の名が登場します。
行盛は、南朝方の豪族里見氏に攻められ自害したと伝えられます。
その後、行盛の子憲行が関東管領上杉氏の支援によって岩櫃城を奪還し、その後、斎藤越前守憲広(基国)まで6代に渡る東吾妻支配の本拠戸なりました。
戦国時代の上州は甲斐武田氏、越前上杉氏、小田原北条氏による支配権争いが繰り広げられ、永禄6年(1563年)斎藤越前守憲広(基国)の本城であった岩櫃城は武田信玄の家臣である真田幸隆の手によって落城し、武田氏の西上野支配が確立しました。
武田氏滅亡後この地は真田氏の支配となり、岩櫃城は信州上田城から上州沼田城を結ぶ中間地点として、重要な位置を占める事になりました。
徳川幕府開設後も吾妻地域は真田氏の支配となりましたが、徳川家康による「一国一城令」に伴い、慶長19年真田信幸は城下町を現在の原町に移し岩櫃城は破却し、岩殿城、久能山城と並び武田の三堅城といわれた岩櫃城も戦国時代の終焉と共にその役割を終えました。
ずら~と書きましたが どうも岩櫃城というと真田しかイメージが湧きません。
画像紹介の前に、今回の探索ルートを赤矢印で説明します。
赤丸の位置にある駐車場から反時計まわりにグルット探索しました。
真夏のゆだる様な暑さのなか、大汗かきながら回りましたが改めて見ると岩櫃城の中核部をさらっと歩いただけに過ぎないんですね、 実に城域は広大です。
水廓から本廓のある尾根筋に向かう様子。
尾根筋に登る手前に控える枡型虎口。 広すぎて画像に納まりきれてませんが、土塁でしっかり囲まれた空間です。
本丸散策の前に、本丸裏手の尾根筋(搦め手方面)に登ってみることにしました。
切岸を越えると小廓が存在します。
本丸裏手は、基本的には痩尾根になるので大した面積ではありませんでした。
汗をダラダラ流しながらなおも上の廓を目指します。
途中ちらりと垣間見えた麓の様子。
結構な比高差。
尾根道が下りになってきました。
この先が気になりましたが、体力的に引き返す事にします。
引き返して 本丸全景を撮影。
左手前が枡型虎口。 それなりの広さを持つ平坦地ですが、植林が視界を遮り全体像が掴めません。
左手(北側)には土塁が巡らしてありました。 良く残されています。
その先にある居館跡。
碑があるのもこの辺り
居館跡は本廓の中でも一段高くなされています。
本廓から南側を撮影。 堀切の先に凄まじく藪に覆われた小廓が確認出来ますが・・とても入れたものじゃありません。
本廓を後にして、2廓を目指します。
堀切が実に見事に山城らしくていい味出してます。
堀底から撮影。 右手が本廓方面。
岩櫃城3に続きます。