ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

松山城 (埼玉県 吉見町)2

 
松山城の続きです
 
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再び本郭 
 本郭北側を守る 兵糧倉方面へ降ります
 
 
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 現地の縄張り図を再び掲載
 改めて見ると本当に複雑な縄張り構成です。 
 この様に様々な史料が展示してあるのが非常に有難いです。
 
 
ここで 松山城についての説明を
 現地案内板より抜粋
 
松山城の築城は 山内上杉氏・扇谷(※オウギガヤツ)上杉氏らによる関東の動乱を背景とした15世紀後半という考え方が有力である。
 松山城が中世史に登場するのは大永4年(1524)1月以降であり、室町幕府の要職にあった公方足利氏(※古河公方)扇谷・山内両上杉氏の対立から、関東制覇を進める後北条氏が進出する時期と言える。
    中略
  常に戦略の最前線として、後北条氏甲斐武田氏と岩槻太田氏・越後上杉氏との間で、幾多の合戦が繰り広げられた。
  天正18年、豊臣秀吉による関東攻略が行われた際には、前田利家上杉景勝の大軍に包囲され、4月下旬に落城した。
 徳川家康の関東入国の後は、松平家広が居城としたが、跡を継いだ弟の忠頼が慶長6年(1,601)浜松城に移封されたのに伴い廃城となった。
 
 
 松山城は、東に広がる広大な関東平野と戦国期の山城が集中する西の山間部の分岐点に存在する北武蔵の重要拠点であった。
 また この立地は扇谷上杉の家臣から、後北条氏の勢力下に加わった上田氏の支配域の東端と見ることができる。
 上田氏の比企地方における本拠は比企西部の小川・東秩父地域であり、東秩父村の安戸城及び菩提寺である浄蓮寺を西端とし、中城・腰越城・青山城・青鳥城などを経由し松山城を東端とする領域を支配していたことで知られる。
 
 
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兵糧庫(郭)へ降りて 本郭方面を見上げて撮影
 道が折れているで動線が解ると思います。
 
 
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暫く進むと なにやら 足元に建物が見えてきました。 位置は兵糧庫の北側の無名廓
 崖の下なので 迂回しないと降りられません。
 
 
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 2郭北側に広がる 惣廓跡
  広めの平坦地で、現在は畑にもなっております。
 
 
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3郭方面に移動します・・・この辺りの 記憶がちょっと曖昧です
 
 
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 3廓から4郭へ移動します
 この辺りは日当たりが悪いせいか草が少なく空堀の形状が良く確認できます・・・
但し 藪蚊が凄い
 
 
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4郭と外郭を隔てる空堀です。
 非常に良く残されています
 
 
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 4廓外側の削平地。 土塁が僅かに残ります。
 
 
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削平地を更に進むと集落に出てしまいました
 根古屋集会所なる名称の集会所もあるので 松山城とは大いに関連のある地域だったのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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外にでたので
 そのまま松山城の外周
 を廻ります
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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  先ほど足元に見えた 「岩室観音堂」 まで来ました。
このお堂、立地がかなり変わってまして・・・ お堂をくぐって奥に進むと
 
 
 
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松山城の竪堀になってました。 
 お堂は竪堀を塞ぐように建てられてます。
左手が惣廓・ 右手が兵糧庫(廓)の先の無名廓
 正確に言えばほぼ自然地形のちょっとした渓谷です。
 この先に水源があるようで、 水が手前の観音堂に向かって染み出しておりました。
 やはりここも 藪蚊が凄い事になってますが。
 
 
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岩をくり抜いた洞窟などあって不思議な空間を醸し出してます。
 案内板によると 石田三成軍の兵火で当時のお堂は焼失したものの、尊像だけは岩窟内で燃えずに残っていたとか。
 
 
 松山城の勝手な評価は 5  
遺構自体の規模は言うことなし、遺構の残存度、整備状況も非常に良く、又本郭を中心に整備された各種解説板も周辺の比企城郭との関連にまで触れられており 非常に解り易くなされています。
 駐車場にも困らない点も素晴しいです。
 草のぼうぼう具合をもう少し何とか・・とは思いましたが それは夏場に行くのがいけないのかなと言う事で。