ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

箕輪城 (群馬県 高崎市) ①

 
またしても久しぶりの更新です。 もうちょっと頻繁アップした方がいいのは・・解ってるのですが・・
 
 今回取り上げる 「箕輪城」 は、城好きには有名ですし 今更解説不要でしょう。  なのでお城についての歴史
 
はごく簡単に済ませます。(実は結構面倒なので・・)
 
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                                                    - 3の丸石積 -
  
 現地の解説等によると
・ 1,500年+-30年頃 長野業尚が築く 
               以降長野氏4代(憲業→業政→業盛)

・1,566年         武田信玄箕輪城を落とす 以降は武田氏支配時代
                内藤昌豊等が支配

・1,588年         武田氏滅亡に伴い織田家家臣 「滝川一益」 の支配下に置かれる。

               同年 本能寺の変後 滝川一益北条氏により関東から駆逐され(神流川の戦い) 
               以降鉢形城主「北条氏邦」の支配下に。

・1,590年         北条氏滅亡 徳川氏関東移封に伴い 徳川臣下の 「井伊直政」 が城主に

・1,598年         井伊直政が高崎城を築くのに伴い箕輪城は廃城とされる
 過剰書きにしましたが 城主は目まぐるしく変わってます。 が
 個人的にはやはり 箕輪城と言えば長野業政かと・・
 
 
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 搦め手口(城の東側)の駐車場に車を停めて 訪城します。
写真右手が城内部で 土塁が手前から奥に走っているのが解ると思います。 
 写真左手が搦め手口 中央は堆積物で埋まった空堀の痕跡です。 
 
 
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   縄張り図右上が搦め手口です。
全体としては平山城・もしくは丘城と呼べる十数メートル内外の比高差の台地上に築かれてます。
それを 人力でひたすら掘って掘って掘って掘って堀抜いて構築してます。
 更に先ほどの画像の様に台地周辺の低地まで堀で囲み城域を拡大しています。
 
 
 
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 比高差は10数メートル位の坂を上がると本郭へ繋がらる馬出しに出ます。
土橋の先は本郭です。 
 ・・何故か搦め手から進むとすぐに本郭に入れる構造です。
 
 
 
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 土橋上から空堀を撮影  2の丸と本郭を仕切ってます。 
 鍬鋤で掘った労力はどれ程なのかこの巨大さでは・・・でも ここまで掘っても落城したのも凄いですね。
 
 
 
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本丸に入るとある石碑です。  このアングルの写真って半ば御約束的??
 
 
 
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本丸内部は草原になってます。 周囲を巡る土塁は腰巻(足元)に石積みが施してありました。
 
 
 
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草原の下には当時の屋敷跡の遺構が埋まっているようです。 その航空写真。
 
 
 
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本丸の奥には御膳廓と呼ばれる小廓があります。 
 2の丸から 馬出し 本丸 そして御膳廓と1本で続いてます。 その周囲は圧倒的な規模の堀で守られてます。
ここが実質の城の最奥部でしょう。
 
 
 
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御膳廓内部  奥に見えるのは井戸です。
 
 
 
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 御膳廓西側から堀下を撮影。 堀を挟んだ森も廓です。
 
 
 
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北側 稲荷廓空堀跡です。  右手の新廓は耕作地化されてます。 奥に丸馬出しがあるのですが・・・
雑草で全く確認出来ずでした。
 
 
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稲荷廓内部   草が深くて奥までは行けませんでした。
 真夏の訪城は制約が色々ありますね。
 
 
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本丸と稲荷廓を分ける堀の堀底道です。 右手が本丸側。
 
 
 
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 本丸土塁面をアップで。
 
箕輪城② に続きます