ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

小菅城 (山梨県 小菅村)

  またしても久々のアップとなりました。 
最近は訪城してないので9月末に訪城した 都県境にある小菅城をアップします。
 小菅城のある小菅村は都内からなら青梅街道を西へ西へと走り奥多摩湖を過ぎ都県境を越えた山間部にあります。
 甲府方面から都内へ帰る場合、 特に週末の中央道は呆れるほど大渋滞が恒常化してる関係で、青梅街道を抜け道として利用する時があります。 その際にこの小菅村の付近も通過しますが 大変山深い所いった印象があります。
 
  柳沢峠開通以前は大菩薩峠から小菅村を経て、 北条領の小河内村に抜けており この 「小菅城」 は武田側の対北条氏最前線の城郭として機能してました。
 
 
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                                          小菅城 堀切りを挟んで本郭を撮影
 現地の案内板によると
この山城は、 室町初期に築かれたと思われる。 堀切 ・ 帯状腰曲輪 ・ 破壊ケ所 ・ 虎口あり。
 城主は、 藤原朝臣小菅遠江守信景。
 丹波(※小菅村に隣接する“たばやま村”) 小菅一村の領主で、 小菅村川久保 (現小学校付近に
屋敷あり) に、 代々住んだ。
 戦時には、 この城に詰めた。 甲武の国境警備に当たり、 丹波黒川金山を支配し、 又、 現在の大月市
土室沢 ・ 小金沢も支配していた。
                           -中略ー
 信景死後子孫は代々武田家に仕え、 信玄公 ・ 勝頼公の時代には、 侍大将 ・ 足軽大将として
活躍した。
 武田滅亡後、 小菅五郎兵衛尉忠元は、 織田信忠に殺された。 
 小菅又八郎信有、 小菅次郎三郎信久、 小菅九兵衛などは、 郡内(※甲斐国東部)へ侵攻した北条氏を撃退したので、 家康公の旗本になり、 甲斐国に領地を貰った。
                                             面倒なので 以下略
 全国の小菅・古菅姓はここがルーツだそうです。 尚 他の子孫や家臣は元の農業へと帰農し現在に至るそうです。 
 
 

 
 
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 現地の縄張り図です。
 集落裏手の小山を利用して図右手の本郭が築かれ、 唯一の尾根筋に当たる左手には堀切りによって遮断線を構築し、 同時に尾根筋を削平し小廓が築かれています。  全体的には おたまじゃくし型をなしてます。
  城の寸法は、 右から左までで凡そ50メートルあるかないかといった程度の規模。
 
 
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 丹波山村へ抜ける県道沿いにある
箭弓神社。
 この左手から城址へ続く登山道があります。
 駐車場はありませんがこの辺りに路駐できそうです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 利用者が少ないのか やたら雑草が
茂るこの登山道は少々厄介。
 歩くと雑草の種子がびっしりズボン
にくっ付つき はたき落とすと何故か
古いオイルの臭いが手に付いて
閉口しました。
 どうやら種にオイル成分が含まれてた
ようです。
 
 
 
 
 
 
 
 
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  麓から約10分程で辿りつく小さな山ですが かなりの急斜面です。
  垂直に登攀はまず不可能な勾配で、 山道も尾根筋に出るまでは短いながらつづら折りに続きます。 
 
 
 
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 坂を登りきると 尾根筋の小廓に至ります。 
尾根筋から右手 本郭方面を撮影。 奥の小山が本郭で手前左手は尾根筋の小郭です。
 画像中央から奥に続く登山道が帯曲輪の跡にも思えました。
 
 
 
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 小廓に登って本郭方面を撮影。 本郭手前には堀切りがあります。
廓の幅はせいぜい3メートル程度、 非常に狭い空間です。
 
 
 
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  先ほどの堀切りを下から撮影。 元々の小規模な堀切りだったのでしょう、急こう配ながら 深さは2メートル
程度。
 
 
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 廓を巡る 「帯状腰曲輪」  恐らく手作りの標識は非常に味わいあります。
  土塁等は巡ってなかったようです
 
 
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  本郭に登り振り返って撮影。 廓と呼ぶには狭すぎる空間、 籠城戦は想定してなさそうですね。 
 
 
 
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本郭内部。 完全な削平地ではなく 狭いながらも段差によって区割りされているように思えました。
  廓内部は大変狭くちょっとした避難場所程度の用途だったと思われました。 
 
 最近読んだ本で 「村人の城・戦国大名の城」 というのがありまして、 ここに詳しく小菅城の成り立ちが書かれてます。 
 武田領の国境線を警戒する城であると共に、 小菅村の村人によって築かれた避難所としてのの2つの性格を併せ持っていたそうです。
 隣村の小河内や檜原は既に北条領という緊張感のある立地であり、隣村の連中が身代金目的で村人を誘拐する事が日常的だったそうですので、 人さらいから村人を守る城でもあったのでしょう。