ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

赤山陣屋 (埼玉県 川口市)

 又しても前回記事から大分経ってしまいました。  
 ブロク更新が滞り始めてから大した訪城は出来てませんが、 それでも 記事だけは、訪城から1カ月以内を目途に掲載しておりましたが・・
 
 実は今回の 「赤山陣屋」 は真夏の訪城です。  季節が変わるほど時間が経つと 何処を撮影した画像か解らない物があったりと・・・かなり怪しい内容になってます。
 
 
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                                         北側空堀 堀底から撮影
 赤山陣屋を築いた 「伊奈氏」 は、 その優れた土木技術によって江戸時代の治水 ・ 新田開発に貢献し,
関東郡代世襲した家柄である。
 赤山陣屋は、 寛永6年(1629年)、3代 伊奈忠治によって、 ここ赤山の地に築かれた。
以降163年間にわたって、 在地支配と新田開発の拠点として機能し続けたが、 寛政4年(1792年)、 伊奈家
改易に伴って赤山陣屋も廃止された。
 陣屋の建物や家臣の屋敷はことごとく壊され、土地は払い下げられて、 以降は田畑や山林として利用された。
                                           現地案内板による  
 
 

 
 
地図でわかるように 外環に隣接しております。 周辺は田畑が案外残ってるのが印象的でした。 
植木も有名なんですよね、この辺りは。
 出丸は道路建設にかかっていたようで残っていないようですね。
 
  
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 場所がちょっと解りにくいのか方向音痴なのか・・・
外環の下を走る国道298号の
側道から、 左画像の道を探すのが便利かと。
 
 一通逆走になるので車は 路肩に停めるしか方法はなさそうです。
 
左手の標識の奥が空堀
 になります。
 
 
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 堀跡を利用した公園となっていました。
 
 
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 暫く進んで振り返って撮影。  奥に見える高架は外環です。
  きちんと整備された 空堀が続きます。 深さは1メートル位、幅2~3メートル程度でしょうか。 
耕作地化のせいで大分埋められた? のか・・・ 長大な堀ですが 本当にこれで堀の役割を果たせるのか 少し疑問に思えました。 
 
 
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 奥まで進むと 本格的に空堀になってました。  堀上の土塁もはっきり確認出来ます。
残念ながら この先は藪々で侵入を断念。 
 内廓側は土塁も巡っていたようで 堀底から4メートル位はありそうです。
 
 
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 そこにあった標識です。 そこかしこに同様の標識があって大変便利でした。
堀はかなり埋まっているようですね。  浅間山の噴火? 
 
 
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標識に解説が
「御陣山稲荷」です。
 僅かに残る土塁上に築かれてます。
 
 鳥居が白蟻でボロボロ・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 本丸 裏門跡付近には 石碑と詳しい解説板があります。
 
 
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裏門付近は 空堀が一直線に残されてます。 
 
 
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本丸内の様子。 畑が広がります。 夏の日差しが容赦なく降り注ぎ陽炎でも湧きおこりそうな酷暑でした。
 
 
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 2の丸付近の空堀。  いい雰囲気出てますが、相変わらず堀が浅いですね。
ここでは二輪草の繁殖をされてるようです。 
 
 
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 家臣屋敷や外郭を含めた当時の様子。
今では畑と植木畑が広がるばかりですが、 当時は関東郡代の陣屋として相当なスケールを誇っていたようです。
 しかし同縮尺の大阪城をもってくる所がなんとも・・   確かに敷地面積では上回っているようですが・・・
 
 
 伊奈氏って何者? と思ってましたが 現地にあれこれ案内があり不勉強でも全く問題なしでした。
伊奈氏は、天領の治水や新田開発を担う行政官として活躍していたそうです。
当時東京湾に注いでいた利根川を銚子に付け替えたあの有名な河川改修事業も担っていたようです。