エー 今回は東京23区内にありながらも貴重な中世城郭遺構の残る 「世田谷城」 になります。
実は、 訪城は今年2月の初旬なのですが、 前回の八王子城の記事が延び延びになったのと震災の影響? で後回しになり、ようやく今回アップできました。
現代の世田谷城周辺は “閑静な世田谷の住宅街” にすっかり囲まれてますが、 この城址公園として整備
された一角には土塁や空堀の跡が良く残されてます。 (画像の石垣は最近の物)
どういった経緯かは知りませんが、 一角とは言えよく保存された物です。
都心部の遺構などは重機で潰されて、 石碑がポンと置かれておしまいかと思えば例外もあるもんですね。
所で、 世田谷城の由来ですが 現地案内板によると
世田谷城は、 清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。
貞治5年(1366)、 吉良治家によって築城されたと言われますが、 定かではありません。
永和2年(1376)に吉良治家が鎌倉八幡宮に宛てた書状から、 遅くとも14世紀後半には、 この地に吉良氏が領地を持っていた事が解っています。
応永33年(1426)には 「世田谷吉良殿」 等と称され、 足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる存在でした。
その後、 吉良頼康の代には、 小田原北条氏と縁戚関係を持つようになりますが、 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、 吉良氏は上総国生実(現千葉市)に逃れ、弘徳院 は豪徳寺の前身といわれています。
世田谷区役所も近くにあり かなりの高級住宅地じゃないでしょうか。
地形的には
目黒川の支流、 烏山川が大きく蛇行する地点の北側、 三方を川に囲まれ、 南側に突き出た台地上に築かれています。又 城北方を通る滝坂道と東方の鎌倉道が交差する交通の要衝にあたっています。
と同じ案内板に説明がある様に、台地上に築かれてます。
宅地化した為地図では平坦地に見えますが、 実際の地形は東西に川に沿って伸びる段丘面が南に
舌状に伸びる部分を利用して築かれており、 周辺地形にはその痕跡がはっきり解る斜面が続いてます。
現地掲示の縄張り図です。
よーく図を見ると豪徳寺境内にも現存土塁があるんですね、 完全に見落としてました・・なのでそちらの画像はございません。
堀底から3~4メートル以上はあると思います。 予想外に土塁の規模が大きいので少し感動してます。
が、 この後世施工されたであろう 「法面の石垣」 が気になって仕方がありませんでした。
土のままでは公園化の際に危険と判断されて石を積んだのか・・・ これを見た人は 世田谷城は石垣造りの城だったと誤解しかねないのでは?
土塁上から東側 (区役所方面) を撮影。 土地が周囲よりも高い証拠みたいですが、 今でも遥か先まで見通せます。
堀底に降りて撮影。 堀の先はフェンスで遮れて進めませんが遺構自体は奥まで続いてます。
どちらかと言えばフェンスの先の藪まみれの遺構に興味が湧きます。
城址公園を後にして城東側の道を
進み、 さっきの土塁の続きを
探します。
うーむ中々の高級住宅地・・
全く縁のない所です(笑)
どこぞの方の敷地越しに失礼して土塁を撮影。 結構見事に残ってます。
道路と並行して民家越しに土塁は続いてます、 でも この辺りの土塁は変なアングルで撮ってると不審者扱いされかねないので注意が必要ですね。
色々歩いてるうちに豪徳寺に辿りつきました。
この境内が当時の吉良氏の館にあたるようです。
少しだけ境内にお邪魔してます。 時間の都合もあったのでそそくさと退出しました。
豪徳寺 参道脇より 廓A に残る土塁を参道側から撮影。
参道右手からはっきりと解る 土塁です。 廓Aの敷地は そのまま団地として活用されてるようでして
周囲に巡らされた土塁がかなり明瞭に残ってます (ちなみに団地内は部外者立ち入り禁止と書かれてます)