年度末は色々とバタバタしてまして、 またしても御無沙汰の更新となってしまいました。
訪城は2月の初旬でしたので随分長々との掲載になりましたが、今回で八王子城は最後です。
いささか中途半端な内容になりますが、 前回③後半で少し触れた、御主殿周辺の残りの画像を掲載します。
いきなりですが 御主殿前の
復元橋を真下から撮影。
に挑戦してみました。
当時、こんな頑丈な橋が架けられていたのかなぁ・・
先ほどの橋を過ぎると この 「御主殿の滝」 が現れます。
案内板によると
天正18年(1590年) 6月23日の豊臣秀吉の軍勢による攻撃で落城した際に、 御主殿にいた女性や子供、
将兵たちが滝の上で自刃をし、 次々と身を投じたといわれています。
その血で城山川の水は3日3晩、 赤く染まったとの言い伝えが残ってます。
この悲劇的な云い伝えがあるせいか、 八王子城は 「出る」 と地元では結構有名な所なのですが
実際の滝は、上から瀧壺まではどうみても2メートル強くらい。
ここからでは 飛び込むと言うよりも、 飛び “降りる” でしょう。
奥に復元橋が小さく見えてます。 その先は大手方面になります。
左手の坂道を登ると 御主殿(氏照居館跡) があった広大な平場になります。
右手方形の土盛りの右脇に先程の滝壺があります。 土盛りには当時 矢倉でも組んであったんでしょうね。
その土盛り上から滝を撮影。
ここからなら滝壺までは結構あります。 矢倉でもあったら更に比高差があったでしょうし、 そこから突き落とされたらきっと滝も赤く染まったでしょう。
滝のすぐ上流側で、 河原の両側に椿の花が綺麗に並んでました。
上から流れてきたようです。
左手の登り坂脇にも石積みが残ってました。 しっかり現役で法面を支えてます。
登り切ると 御主殿跡の広大な敷地が広がります。 さすがにここの広さは別格です。
右手の土塁と奥の門は復元です。 左手の山が本郭方面。
御主殿址は特に復元工事多くされた廓なのですが、 それでも当時の石積みが残ってたりします。
妙に新しいと違和感があります・・・塗装を直したばかりのようでした。
塀の裏側には御主殿の発掘作業の模様や、出土品の解説などが掲示されてます。
その内の一枚 礎石跡の解説。
ちょっとマニアックなネタですが・・・
礎石の間隔から、柱と柱の間の寸法(1間)が、 6尺2寸5分基準の建物であったようです。(江戸間は6尺)
微妙な寸法ですがこれが北条仕様の建築基準だったのでしょうか。
門から石段を下り復元曳き橋の方へ向かいます。 “コ” の字型に折れ曲がった石段スロープになります。
この辺りの石積みや土塁は復元された物です。
ちなみに 踏面が1メートル 蹴上げ36センチ平均で25段あるそうで、 これが駆け上がるには幅が広すぎて、
歩くと歩幅が合わせにくい・・極めて登りにくい階段寸法でした。 これも考えて段を設定してるんでしょうね。
曳き橋は工事中でして生憎の通行止め。 つまりこの先の遺構も見られずと言う事でした・・・。
工事は3月末で終わる予定と書いてありましたので 今頃はリニューアル後の筈・・又 行くしかない?!