ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

下田城 (静岡県 下田市)

下田城
 
訪問 2016年 1月
 
駐車場 有(公園内)
案内板 有
 
 気が付けば前回の長浜城で累計掲載数が200記事に達していました。
中断も多い、掲載ペースの遅いのマイペースブログですがよくもまぁ飽きもせず?に続いていたと・・いう事で今後もこんな感じで続けられればと思っています。
 
 さて、長浜城に続いて今回は、同じようなコンセプトで築城された北条水軍の母港、下田城を紹介します。
 
 下田城は後北条氏の最末期に豊臣政権との対決を念頭に整備された城郭でして、前回の長浜城と比較すると築城術の進化といいますかそのような違いが素人目にも何となく判ってこれが中々面白い城郭でした。
 
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                     下田城 畝堀と前面の射撃陣地跡
 
 例によって 位置は下記のURLを参照して下さい。
 
 

 
早速ですが 現地案内板の抜粋から下田城の紹介を。
 
下田城址

 天下統一を進める豊臣秀吉と、小田原を本拠地とする北条氏の対立が表面化してきた天正16年(1588)、陸の防衛拠点である箱根の山中城三島市)とともに、海の防衛拠点として下田城が取り立てられ、伊豆郡代清水上野介康英を城将に大改修が行われた。
 
 城は、海と断崖に囲まれた天然の要害に築かれている、
 通称天守台跡と呼ばれる高台を中心に、四方に延びた尾根の要所に守備陣地である曲輪や櫓台が設けられ、総延長700mを超える空堀が巡る伊豆半島最大規模の山城である。
 
 天正17年(1589)12月から翌年にかけて、雲見の高橋氏や妻良の村田氏などの南伊豆の武士が入城し、小田原からは援将江戸摂津守・検使高橋郷左衛門尉が派遣され、臨戦態勢が整えられていった。
 
 天正18年(1590)3月、清水湊(江尻)に集結した豊臣方水軍は、長宗我部元親脇坂安治らが率いる1万人を超える大船団で、西伊豆を制圧しながら下田城に迫った。
 
 圧倒的な兵力を眼前に、城将清水康英ら600余名の籠城軍は、50日程防戦に努めめたが、4月下旬には開城の勧告を受け入れ、城を出た。
  
600対10000まで戦力に圧倒的な差が生じては、城の縄張り云々でカバー出来るものでもなく、結局は開城してしまうのですが・・それはそれとして、ここ下田城の見所は三島の山中城にもある空堀の堀底の畝でしょうかね。
 
 
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 うんちくはこの位にして早速下田城を目指す事にします。
 画像正面の半島先端部が下田城にあたります、現在の下田城の敷地は下田公園として整備されおり散策は極めて容易です。
 
 公園北側海沿いのペリー艦隊来航碑辺りに公園駐車場も完備しております。
下田公園は、下田城としてよりも「紫陽花」で有名なようです。
 
 
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 下田城北側からお邪魔します。 
開国広場にあった模型写真を掲載します。
 船着き場側が北ですね、下田城は陸路から迫る敵から港を護る為の造作です。
港をぐるっと囲むように尾根沿いに防禦線を構築しています。
 
 
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 堀切跡に掲載されている縄張り図も併せて掲載します。
 散策順を矢印で、撮影箇所を番号で明記します。
 
 
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 少し尾根に登って開国広場辺りを撮影。
画像右手が船着き場方面、左手の山の上が尾根筋に展開する防衛線がある所です。
 
 
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 1の尾根筋を撮影。画像正面奥が主廓となります。

 散策路両側は恐らく紫陽花?と思われる植物で城郭遺構は確認が出来ない状態です。
 
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 2のポイントには「鶴島城址」の碑があります。
 奥は主廓跡になりますがこれは最後に見ることにします。
 
 
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 先の尾根筋の外側に降りると、空堀と畝の跡がはっきりと残されていました。
画像左上が尾根道になります。
 
 
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 尾根筋道を進み4のポイントで振り返って撮影。
 画像左手が尾根に築かれた土塁ライン、折れはなくひたすら1直線に延びています。 土塁裏側の空堀を見たいのですがちょっと登れそうもないので断念。
 
 
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 下田港が一望できる東屋から撮影。
1月にも関わらず温かいのが印象的でした、明らかに都内よりも気候が穏やか。
 
 
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 尾根筋土塁が堀切ってある場所がありましたので反対側に行ってみることにします。
 
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空堀があるのは判るのですが・・堀切の先は荒れ放題、これ以上は進めないので引き返します。
 
 
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 「現在位置」にある堀切を渡り振り返って撮影。 岩盤くり抜いて作られています。
 
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土橋から撮影した 5にある空堀の様子です。
 ここから50m程は綺麗に整備されており、堀底の畝もしっかり確認出来ます。
 
 
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 7付近から 6方面を撮影。
画像左手の主廓直下のこの空堀は城内で最も明確に堀底の様子が判る場所です。
 三島の山中城そっくりな空堀は見事の一言。
 
 前回紹介した長浜城の陸側の防禦は、廓の陸側に大型の土塁を巡らす事でしたが、ここ下田城ではこのような空堀と地形の高低差も合わさって防禦力は格段に進化していると言えるのではないでしょうかね。
 
 
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 更にこれです、 この畝堀端にある土盛り・・ではありません。
散策路が真っ二つに縦断していますが、畝堀前面に突き出したいわゆる射撃陣地で、堀に迫る敵勢力に主廓と協力して十字砲火を浴びせる仕組みだったのでしょう。 
この陣地は画像の番号で言うところの6と7に当たる箇所に構築されています。
 
 
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 番号7の陣地がこちら。 城に迫る尾根に接しているためかこちらの方がより大型です。
 
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7の陣地に登って6方面を撮影。
 
 
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 7の陣地と主廓切岸の隙間から6方面を撮影。
 この陣地裏側は空堀が構築されていません。
 
 
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こちらは場所を変えて 両射撃陣地から空堀を挟んで直上の伝「天守台」跡と書かれた主廓跡の様子です。
これが非常に細長い廓でして、長浜城の廓群よりも狭いです。
 勿論「天守台」と言っても鯱鉾の載った建物など建っていた訳はないです。
 
 
イメージ 21
 先ほどの6の陣地と空堀を見下ろした所を撮影。
高低差は相当なもんでした。
 

下田城の評価は 4 とさせて下さい。
 
一般的な認識で呼ばれる「城」というよりも港湾を護る要塞のような印象を受けた下田城は縄張りが非常に特徴的で見ていて飽きないものでした。
 それだけに現状では極僅かな範囲でしか城郭遺構が整備されていないのが残念に感じました。
 下田城こと下田公園の売りは紫陽花のようですが、もう少し城としての歴史を扱って欲しい・・と感じる所です。