ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

台場 (東京都 港区)

 相変わらず 記事の更新が進まず、久しぶりのアップになります。
ここの所は、貧乏暇なしの言葉を地で行くバタバタ続きでして・・タイトルのお台場へも休日出勤の帰りに立ち寄るという涙ぐましさで見て来ました。
 
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 お台場と言っても当ブログですから 某テレビ局のあるお台場一帯ではなく、 湾の防衛に築かれた砲台の
台場そのものです。
 現地の案内板によると
台場公園(第3台場)
 「お台場」 の名で知られる品川台場は、 江戸幕府が黒船襲来に備えて品川沖に築いた砲台跡です。
 設計者は伊豆韮山の代官 ・ 江川太郎左衛門英龍で、 ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永6年
(1853年)8月 に着工、 1年3カ月の間に6基が完成しました。
 現在は 大正15年(1926年)に国の史跡に指定された 第3 ・ 第6台場だけが残されています。
 
 

 
 
 当所11基の計画で突貫工事が始められたものの、 結局6基が完成たのみで終わった台場ですが、 その後はこの2基を除いて東京湾の埋め立てにより順次埋没しています。
 
 
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お台場海浜公園から地続きにアプローチします。
 石垣のラインが揃ってますね。 石垣上部の武者返しも立派なもんです。
 軟弱な地盤に重い石垣、突貫工事の割に石垣の沈み込みが殆どありませんね。
  緊急工事だし、もっと手を抜いて時間と費用を節約して台場の数を増やす方が良かったのでは? と思いましたが・・・
 
 
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 算木積みを境界にして左右で石垣の仕上がりにかなりの差がありました。 
ペリーからは見えない湾の奥側なので 見栄えは抑えたんでしょうか?
 
 
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 縄張り図? 城郭ではないので単に平面図でしょうか。 
 この第3台場は、 外周を5~7メートル程度の土塁によって囲まれた、 1辺が150メートル程度の正方形をしています。
 また左下の船着き場部分だけは土塁が切れています。
 
 
 
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縄張り図左上の 「現在位置」 から内廓を撮影。 石垣のない内側は城郭というよりも 近代要塞の雰囲気を感じました。  広々してます。
 
 
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 外周部土塁上から撮影。 写真では解りませんがこの芝生面にはかつての凹凸の痕跡が残ってました。
 
イメージ 14船着き場跡を土塁上から撮影。
 土塁が断ち切られています。
 
奥に見えるのが第6台場です。
あちらは立ち入り禁止です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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ややアップで第6台場を撮影。 意外に近い・・ いくらペリーでもこの間の強行突破は危険でしょう。
 
 
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船着き場を内側より撮影。 この背後には目隠し用の土塁があります。
 
 
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陣屋跡に残る基礎跡。 
勿論江戸時代の建築遺構ではないでしょうが・・・調査不足です。
 後ろに某テレビ局がちらっと写ってます
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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外周土塁内側の数カ所に残る火薬庫跡。
 石で組んだ梁の上に瓦が重ねてあります。
 
 
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内側には仕切り土塁があります。 土塁に囲まれてるのは 「かまど跡」
 
 
 
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 仕切り土塁の断面。 石垣の縁取りが変わってます。 
 この石垣は後世の物? なのか石の目地にはモルタルで固定した跡がありました。
 
 
イメージ 7かまどの跡。
江戸時代の物ではなくともそれなりに年季が入った風格が漂います。
 大谷石で組んでありました。
 8角形で其々の辺に窪みがあり
煮焚き出来る仕組みのようです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8 上から撮影。
なるほど集合煙突でした。
 この発想は海軍でしょうか。
キャンプ場にこんなのが置いて
あったら面白いのに・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 内側平坦地には水が溜まってる所があちこちにあります。
深さはくるぶし以上の所も多々あり、 足元には要注意でした。
 この台場、急造の砲台の割にはしっかり出来てるのが印象的でした。
 それにしても・・ペリーが来て慌てて砲台を造ると言う後手後手振りは なにやら昨今の政治と通じるものを感じてしまいます。