ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

鶴が渕城 (栃木県 日光市)

鶴が渕城

 

訪問 2021年11月

 

駐車場 なし

案内板 あり(縄張り図なし)

 

 

 

 

 

 鶴が渕城

美しい紅葉と共に織りなす山間部の秘境

 

タイトルを「AI様」に言わせると・・こうなります

 

ブログ編集機能に実装された

 「AIタイトルアシスト」

が、お勧めしてくれたタイトルの一つを載せてみました。

 

 なるほど最近のAIは極めて優秀・・・ 私よりもセンスありますネ

訪問者も増えそうな。

 

 まぁ、結局いつものような無骨タイトルにしちゃいましたが

 

 

男鹿川と紅葉と鶴が渕城

 

お城の紹介の前に

 

 鶴が渕城を含む(山城)の遺構の多くは戦国時代無数に築かれ、用済みになれば打ち捨てられ現在に至ります。

 

 戦国時代開始は一般的に1467年応仁の乱終結は1590年の小田原北条氏の降伏位でしょうか?

 

 

 その間、戦国時代はおよそ120年

 

 120年とは、日露戦争から現代ほどの時間的な距離があります。

 

 

120年間をざっくり分けると(自己流ですよ)

 初期、地方小勢力の小競り合い

 前期、小競り合いに勝ち残った勢力による一国の統一

 中期、一国の戦力を活かして幾つかの国を飲み込んでの地方統一

 後期、その地方代表が全国戦に挑む(信長の統一事業あたり)

 

と時間が経つほどに大規模勢力の激突になります。 

火縄銃の普及などもあり、それに合わせて城も進化するわけですが

 

 

さて

今回は前置きが長すぎですね 

 

本題に入ります。

 

 

鶴が渕城が築かれたのは1600年(慶長5年)と推測されます。

 関ケ原の戦いの端緒となった徳川家康による上杉領会津征伐に備えて、上杉景勝が築城を命じたと言われます。

 

 

 120年の進化の末に行きついた、戦国最終進化系の野戦築城「鶴が渕城」

と言えば興味が湧くタイトルになるかもしれませんね

 

肝心な遺構としては

国境警備用の野戦陣地・塹壕陣地のような印象で

「城」と名乗るにも関わらず、角馬出し塁線のみのシンプル構造、郭すら持たない割り切った縄張りを持ちます。

 ※そもそも日本語の「城」の守備範囲広すぎ

 

 とことん贅肉をそぎ落としたような、一切の無駄を省いた縄張りはただ見るだけでは地味な印象しか与えませんが

 城郭の進化の変遷を意識しながら見るとこれが実に興味深い、いやマニアック目線ですね。

 

 

さて 場所はグーグル先生にお任せします

「鶴が渕城」のピンが立っていないようなので近傍の姥捨山を代理で選んでます

 

鶴が渕城は、会津下野(栃木県)の国境である山王峠からやや南の男鹿川沿い谷合の小平坦地に築かれています。

 

 城の脇を抜ける国道121号日光会津方面を結ぶ幹線国道として、山岳ルートながらそれなりの交通量があります。

ja.wikipedia.org

山岳部の僻地ですが、今も昔も重要な交通路として機能していたルートです。

 

 

さて

 日光方面から訪問なら地図上の会津屋」さん(※地図拡大してください)のちょっと手前左手の橋が目印になります。

 城は国道から男鹿川挟んだ対岸に位置してます。

 

 

現地縄張り図がないので

余湖さんのホームページから拝借しました。ほんとこの方はどんな所にも行かれてますね。

 

 山岳部にも関わらず、少数でも籠りやすい山頂を利用した山城ではなく平坦地に防衛ラインを敷いてます。

 

ここで 現地案内板の紹介文を転載します

 

鶴が渕城址

 

 

 

 鶴が渕城址は、戦国時代の山城跡である。

 

 城は、男鹿川左岸の海抜896mの姥捨山上にある曲輪と物見台、男鹿川右岸から田代山に続く長塁と、男鹿川淵の角馬出し3つの部分から構成されている。

 

 

 またこの城の成り立ちは「新編会津風土記によって

 

長沼氏による永禄年間(1558~70)の姥捨山上への築城部分と

慶長5年(1600)上杉景勝徳川家康の来週に備えて要塞化した長塁部分との2つの部分がある事が判る。

 

 

 山上の曲輪部分は上杉氏が補強したと考えられる擂鉢状に深く掘られた寒風よけを中心に、南北凡そ600mに及ぶ範囲に、物見台・土塁が見られる。

 

 

 川右岸の長塁は、角馬出し端から西へ400mを超える長大なもので、途中から空堀・土塁を2重にし、横矢掛り形にしている。

 

 

 川岸の角馬出しは、内部平場が、東西約17m。7南北約19mあり、周囲に比高差平均2mの土塁がめぐる。

 

 馬出しの3方は空堀で、東側は男鹿川の断崖になっている。

 南東部に土塁がない事から、外側に門があり川から橋を渡り、この門から馬出し内に入り、会津領内へ入ったものと考えられる。

 

 

 馬出内は関所として、番小屋などが建てられていたと想像され、戦国時代の臨戦時の関所・関門を考える上で貴重な遺跡であるといえる。

 

 

 

 現存する鶴が渕城址は、築城の長沼氏当時のものとは考えにくく、上杉景勝によって慶長5年(1600)に拡張整備されたものと考えられる。

 

 擂鉢方面輪造りなど上杉流が見られ、川を堰き止めて街道に水を湛え、石弓を設け、更に藤原・高徳辺まで先兵を出し陽動作戦を展開した事が、上杉文書などに見られるからである。

 

 

 以上のようにこの城址は、戦国時代末期の馬出し、長塁を伴った山城で、規模や働きの点で特筆されるものである。

 

 

 

 

長くなったので、そろそろ鶴が渕城に向かいましょう。

 

 

 

日光から国道121号を延々北上し(これが地味に長い・・)那須塩原方面の国道400号との三差路を過ぎると程なく左手に橋が見えてきます。

この橋が鶴が渕城の入口です。

 

 

車は路肩に寄せて停めました。

交通量はかなり多いので停める時は慎重に

 

橋を渡ります。

 

橋の上から男鹿川の紅葉を撮影。

 紅葉と清流 めちゃくちゃ綺麗なんですよ、ここ。

 

 いい時期に訪問したなと 

のんびり写真を撮ってましたが 川向こうが鶴が渕城なのはまだ気づいてません。

 

山間部にも関わらず平坦地が広い。

 

橋を渡ってから左手に進みます。 

 ちょっと道が消えかかってますね。

 

標識が見えたので少し安心。

 

鶴が渕城址の立派な標柱と案内板ですが半ば笹薮に埋もれてます。

 笹の中から熊が出そうでかなり怖いです

 

標柱正面

長塁の土塁線です。 土塁先の角馬出しに向かって1本土橋がかかってますので

 

土橋を渡ります。

土橋中ほどでから空堀西側を撮影。 空堀は土塁を伴います。

 空堀には一切の「折れ」がなく一直線に続いてます。

 

 

振り返って撮影です・・

 全然判りませんね、藪写真コレクションが追加されました

 

同土橋から東側を撮影。

 男鹿川挟んだ対岸のガードーレールが見えます

 

角馬出しを進んで土塁線上から城南側を撮影。

 

城南側は平坦地が続きます。

 

 

角馬出し南側の空堀に降りて西側を撮影。

 

空堀男鹿川の河原まで延びているようです。

 正面の岩盤が削られてスロープ状の道らしき遺構があります。

 

ここから降りてみましょう。

 

落ち葉で不明瞭ですが・・階段になってませんかね? ここ

 

いい時期に訪問しました

と 

しばし紅葉を楽しみまして

 

河原の岩盤部分、川に沿って歩けるようになってますね。

この辺りも縄張りの想定内か?

 

そろそろ城に戻りましょう。

角馬出し外側をぐるり歩きます。

 

角馬出し南西角を外側から撮影。

 

急に森の中から音が聞こえてきたので振り返ると

 

会津鬼怒川線が森の中を通過してました。

 電車での訪問も可能と言えば可能でしたね、ちょっと駅遠いですが。

 

www.yagan.co.jp

 

角馬出しには西側に1本土橋が架けられて城南側との連絡路を形成してます。

 

下手な線を入れて補足

 

長塁側から同じ土橋を撮影。

土橋に対しての横矢が掛けられるような位置取りですね。

 

最後に真っすぐ延びる長塁に沿って西に進みます。

 

 

線路が空堀を橋梁でまたいで 更に奥まで続いているようですが、線路があって進めません。

 あのトンネルをくぐれば行けるようですが

 

荒れ放題に見えるので、ここまでとしてます。

 

 

 

鶴が渕城の評価は 4 とさせて下さい。

 

 遺構の規模や「見ごたえ」だけの評価ならもっと低いでしょうね。

完全に個人的な趣味嗜好だけの高評価です。

 

 何かの「ついで」に訪問する機会もほぼなく、移動時間も掛かる、熊との遭遇率も高いエリア・・・興味が湧かなければわざわざ訪問する事はお勧めしません。 

 

肝心な遺構は、ご覧頂くように単調です。

 縄張り的に対局なのは杉山城のように郭を幾重にも巡らせ縦深性を持たせた城郭でしょうね、それと比べるとろくな虎口もなく写真映えも地味。

 

 

 鶴が渕城には、城郭を構成する数多くのパーツの中から土塁線馬出しのみ取捨選択した結果生じた機能美というのでしょうか、その点により興味を感じたのでいつもよりうんちく長めです。

 恐らく時期的に火縄銃を用いた火力戦が前提で、限られた時間と予算の中で城としての機能を成立させる為の最低限の普請が現在に残る遺構と思われます。