ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

後閑城 (群馬県 安中市)

  群馬の城巡り最終はこちら 「後閑城」(ごかん)です。
 
城としては華々しい戦歴がある訳ではないものの、地元安中市にによって公園整備された城址は  夏場でも
 
安心して訪城出来る数少ない城址です。
 
 現地案内板によると 後閑城は嘉吉・文安の頃(15世紀中葉) 信州の依田忠政が築いたと伝えられてます。
 
 
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                                                -後閑城本郭より西廓-
 
 

 
 
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 日本城郭大系の縄張り図です。
 
 
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 公園としの後閑城には東西に駐車場が整備されてます。
東側に車を停め尾根沿いの廓群を登ると 本廓東廓の下に出ます。 
 画像では杉木立の奥に僅かに見える土塁がそれです。 本郭へはここから土塁に沿って大きく迂回する
必要があります。
 
 
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先ほどの場所を上から撮影。 
 
 
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 本郭北側から 西側を撮影。  抜群の眺望! ・・・って木が邪魔ですね。
麓に向かって伸びる2重堀切りの南側と堀切りに挟まれた段々畑状の小廓群です。
 
 
 
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 本廓直下の堀切りです。  右手は本郭土塁です。 
芝生が朝日に映えてます・・・・実はこの時、 朝6時(笑)   まだ暑くないので快適そのものでした。
 
 
 
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 左手の土塁に登って同じ堀切りを撮影。 右上の建物は本郭上の東屋。
草が刈ってあるので写真でも よーく堀切りの大きさが解ります。
 
 
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 本郭にある 焼き物の立体模型です。
後閑城は 「一城別廓」 の造りである・・・の 意味がこの3D? で良く解りました。 
 本郭から四方に伸びる尾根筋は、 全て堀切りで断ち切ってあるのですね。 
 さて、 ちょっと気になったのが北ににょろにょろ伸びる細長い廓、 城郭大系では 「ここも城山という」 の部分。
 
 
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 実際にの所
 立体模型はかなり忠実で稜線上の
細い山道が続きます。
 人がすれ違えるか微妙な幅。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 山道を5分程で「ここも城山という」
らしき地点に到着。
 
 半ば予想通りで 遺構の有無など
全く確認不能なほどの激しい藪に
覆わてました。
 平場も狭く 観測地点程度の扱いだったのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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   「ここも城山という」 地点から戻る途中、行きに見落としていた堀切りの址を発見。
 この奥は尾根沿いの削平地となっており、 道は左に迂回してます。
 
 
 
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  一転して 本郭内部です。
林立した庚申塔によって、 一面芝に覆われた他の廓とは雰囲気がまるで異なります。
 現地の案内によると
百庚申と呼ばれ庚申塔を百基造って信仰の印としたそうです。
 後閑城の百庚申は、 寛政9年より同12年まで3年余を掛けて造られたもので、 旧後閑城の家臣と称する 「上原」 「安藤」 「中島」 氏等が発起人となり、 安中藩家臣や近隣お人々に働きかけて有史を募り、
 旧後閑城本丸跡に建てた。 庚申塔の総数128期。
 以後、 毎年4月、 桜の花の下、 歴代の城主及び戦死者の供養を兼ねて村人がお祭りを続けている。
  近年 安中市も 積極的に桜を植えてるようです。 桜の時期もいいかも知れませんね。
 
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   本丸を降りて西側の廓に降ります。
 この辺りの土塁のラインは実に優雅というか・・石垣の角ばった城とは全く違う良さを感じます。
 
 
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 廓を一段降りて 土塁際より撮影。 土塁ラインの折れが確認できます。
 
 
 
 
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 土塁をバックに 夏の花 「さるすべり」 と東屋・・・・風のトイレです。
ここ 西側の廓は現在駐車場に利用されてます。 
  このトイレ、 丁度いい具合の位置にあるんです、どうせ写り込むならと アップで掲載。
 
 
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 城郭大系 右上にかくし井戸弁天と記載された
窪地があります。
 その奥になにやら真新しい銅像らしきものが・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 草ぼうぼうで銅像に近づけない為 ブレブレの
画像です。
 しかも 窪地=湿地=藪蚊の大群  でして・・
この方はどなたで?
 旗を掲揚するポールもありますし・・
スーツ?を着てる・・地元の 「先生」 でしょうか?