ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

白井城 (群馬県 渋川市)

 群馬の城 四番目は渋川市街から吾妻川を挟んだ台地上に築かれた白井城です。 ちなみに しらい ではなく
 
「しろい」 と読むそうです。
 
  ここは前回の断崖絶壁上に築かれた長井坂城と違い 平野部の利根川吾妻川の合流地点に築かれており
 
訪城は容易。 遺構としては 土塁や空堀は保存されてますが 郭内部の平坦地はほぼ農地です。
 
 そのお陰で夏場でも蚊の脅威や藪こぎも不要で ストレスなく見て廻れます。
 
  地形的には 吾妻川に沿うように細く長く伸びる台地を上手く仕切った連廓式で  周囲の土地との比高差は
 
 城の東側に残る旧白井宿の街からは十数メートルあります。
 
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3郭土橋より2郭方面   
 
 地図で位置を確認すると 水運と街道を抑えるには絶妙な立地です。 今でもバイパスや鉄道・関越道などが密集してますし。 関東平野への 出口・入口 であり交通の要衝ですね。
 

詳しい地図で見る
 城の経緯については
諸説あるが、15世紀中葉に 関東管領上杉憲実 の信任厚い 「長尾景仲」 によって築かれたと考えられる。
 以来 その子孫である白井長尾家の支配が続いていたが 1552年に主家である 関東管領上杉憲政
越後へ逃れて以降の上野国の混乱のさなか 城の主は上野国へ出兵した武田氏や上杉謙信等 
度々変わる事になります。
  その後、 1590年の小田原の役の頃は北条方の城として豊臣軍別働隊の攻撃を受け降伏し その後は小藩の居城として 幾度も藩が入れ替わり 1623年に廃城とされ 今日に至ります。
 
イメージ 2
 縄張り図は日本城郭大系より
北に向かって広がる三角形の台地の先端を本郭とし 台地を堀切って遮断して廓としてます。
南廓辺りは台地下になります。
 北廓 安房堀の辺りから本郭まで農道が伸びており 車で本郭まで行けます。
 
 
 
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  北廓  安房堀の左手には神社が建つ矢倉台跡があります。 右手の道は旧大手道かと思われます。
ここから本郭まで進みます。
 
イメージ 11振り返って北廓内部を撮影
標柱がなければ普通に畑です。
 
 パトロール実施中の看板に思わず
緊張が走ります。
 傍から見れば 畑の「溝」(堀) を写真に撮る不審者?  ですから・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 大手道を進み3郭内部です
ここも畑です
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 畑の中を走る空堀がいい状態で残ってました。 幅は10メートル強位。 
 大分埋もれたようで深さは2~3メートルもなかったと思います。 2郭の空堀です。
 堀底もきっちりサトイモ畑として耕してありました。
 
 
イメージ 142の丸内部も一面の畑です。
何を植えてるのか・・これは地元では植わってないです。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 2郭から本郭への土橋 手前で撮影。 
その先は石積みの舛型虎口です。
 
 
 
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 荒々しい積み方ですが こんなのの素朴な佇まいがいい味出してます。
立ち入り禁止の柵が廻ってます・・
 
 
 
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 石積みの裏側から登って本丸への土橋方面を撮影
土橋の奥 空堀を挟んで見える土塁は本郭土塁の張り出し部分です。
 土橋への側面攻撃を意図してるのでしょう。
 
 
 
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 しつこく撮影 石積みを向かいの土塁から見てます。
 
 
 
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 本郭内部です。 広々してますがここは畑と空き地が半々 
 土塁が周囲を巡ります、高さは3メートルはありそうでした。
  簡易トイレが絶妙な位置取りで写り込んでます。  対岸には渋川市街が見えます。
 
 
 
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 本郭から空堀を挟んで2廓方面を撮影
先ほどのサトイモ畑の空堀とはまるでスケールが違います。  圧倒的な深さ。
 この空堀は想像以上でした。
 
 
 
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 本郭土塁上から三日月堀を撮影
堀底までは10メートル位  この辺りも見ごたえ十分です。 
 
 
 
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 帯廓より撮影。 右手は空堀を挟んで本郭 左手が市街地化した南廓です
 石積みはほぼ雑草で隠れてましたが 足元に転がる石が いかにも手ごろな大きさで気になりました。
 
 
 
イメージ 9
先ほど見下ろした三日月堀から南側を撮影
 見事な空堀が続きます。 
 
 
 それ程知名度の高い城ではないにも関わらずこの見事な土塁や空堀・・全く予想外の見事な遺構でした。
  夏場に問題なく訪城出来る環境も個人的には有難いです。