「しろい」 と読むそうです。
訪城は容易。 遺構としては 土塁や空堀は保存されてますが 郭内部の平坦地はほぼ農地です。
そのお陰で夏場でも蚊の脅威や藪こぎも不要で ストレスなく見て廻れます。
地形的には 吾妻川に沿うように細く長く伸びる台地を上手く仕切った連廓式で 周囲の土地との比高差は
城の東側に残る旧白井宿の街からは十数メートルあります。
3郭土橋より2郭方面
地図で位置を確認すると 水運と街道を抑えるには絶妙な立地です。 今でもバイパスや鉄道・関越道などが密集してますし。 関東平野への 出口・入口 であり交通の要衝ですね。
度々変わる事になります。
その後、 1590年の小田原の役の頃は北条方の城として豊臣軍別働隊の攻撃を受け降伏し その後は小藩の居城として 幾度も藩が入れ替わり 1623年に廃城とされ 今日に至ります。
縄張り図は日本城郭大系より
北に向かって広がる三角形の台地の先端を本郭とし 台地を堀切って遮断して廓としてます。
南廓辺りは台地下になります。
北廓 安房堀の辺りから本郭まで農道が伸びており 車で本郭まで行けます。
北廓 安房堀の左手には神社が建つ矢倉台跡があります。 右手の道は旧大手道かと思われます。
ここから本郭まで進みます。
振り返って北廓内部を撮影
標柱がなければ普通に畑です。
パトロール実施中の看板に思わず
緊張が走ります。
傍から見れば 畑の「溝」(堀) を写真に撮る不審者? ですから・・
大手道を進み3郭内部です
ここも畑です
畑の中を走る空堀がいい状態で残ってました。 幅は10メートル強位。
大分埋もれたようで深さは2~3メートルもなかったと思います。 2郭の空堀です。
堀底もきっちりサトイモ畑として耕してありました。
2の丸内部も一面の畑です。
何を植えてるのか・・これは地元では植わってないです。