ちょっと山城に (正規運用版)

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小川城 (群馬県 利根郡みなかみ町)

 小川城は前回取り上げた名胡桃城から車で10分もあれば着ける距離にあります。
 
 縄張りは名胡桃城と類似しており段丘端面が浸食によりV字に突き出した箇所を横掘で断ち切って廓にした
 
連廓式の城郭です。 
 
 只 全体的に名胡桃城と比較して敷地も狭くまた廓も2郭のみであり、 それも2の郭が国道建設で破壊され
 
現状は本郭のみとなってます。 
 
 実は期待もせず名胡桃城のついでに立ち寄った訳なのですが、 本郭導入部の虎口形状や空堀等の
 
遺構が中々の物でして 名胡桃城とセットで訪城するには最適な城郭かと感じた城です。
 
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 城傍の国道から眺めた本郭空堀と虎口
 
 

詳しい地図で見る
 実は駅前にあります。
 
現地案内板による小川城の由来をかいつまんで
小川城は沼田城城主 「沼田景久」 が西への備えとして1492年に築き その二男 「次郎景秋」 に知行
700貫で統治させた。
 その後1524年に当時の城主 「小川景奥」 が子息がないまま煮えたぎる酢甕の中に落ち戦死を遂げ
後継者が途絶える。
 その頃、上方より流れてきた 「赤松捨五郎祐正」 と名乗る牢人が軍議などで発言権を増し 皆に推され、 又  上杉謙信の裁可を得て名跡となり 「小川可遊斎」 と名乗る。
-以下略-
  ※捨五郎とは何者だったのでしょう・・ 
以降は日本城郭大系をかいつまんで
謙信死去以降 沼田に進駐した北条勢は1579年に小川城を攻めたが落ちずに小田原に帰った。
 可遊斎は 「真田昌幸」 に従い翌年1月末日に 「海野輝幸」 と共に利根川対岸の 明徳寺城 を攻め落とした。
 3月には逆に北条勢に攻め寄せられ 名胡桃城 と共に防ぎきったが 北条氏邦・長尾憲景が増援を
かけるに及んで 可遊斎 は降伏を望むものの、  真田昌幸 に認められず可遊斎は北国に牢人する。
 1589年秀吉の斡旋により城は北条方の物となるが、 翌年北条氏没落を受けて城は真田方の物となる。
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 ※以降 沼田真田氏5代目信利が1657年まで2廓に築いた陣屋に居住していたがその後は廃城とされたようです。
 上記 縄張り図は日本城郭大系より 
    2の郭上の2本線は国道現す為に加筆しました。
 
 
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 国道沿い 売店の脇にこのように 小川城・真田の里 と書かれた幟旗が林立してるのですぐ解ります。
歩道脇すぐに空堀があります。
 
 
 
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売店脇の登城口から本郭虎口を撮影 土塁の折れがわかります
 
 
 
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堀底より撮影 深さ3~4メートルは今でもあります
 
 
 
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 本郭内部  凄まじい草の繁殖力です。 藪蚊の大歓迎が待ってます。
勿論  藪こぎで突入・・は しません。
 
 
 
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廓際には土塁と矢倉台跡らしき盛り上がりが残っています。 
 この辺りの保存状態は名胡桃城より良好かもしれません。 ただ雑草に覆われ遺構が解りにくい状態です。
 
 
 
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 国道を挟んだ畑には二の丸の案内がありますが、遺構らしきものは見当たりませんでした。