ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

菅谷館 (埼玉県 比企郡 嵐山町)

 中世城郭の宝庫として有名(一部では) な埼玉県比企郡へ先日再び行ってみました。
 
とは云え、温かいこの時期に大汗をかきながらの山城攻略は気が進まず、 今回は平城の「菅谷館」です。
 
 明確な築城者や、その用途が不明な 中世城郭ですが、 都幾川北岸に広がる台地に広大な郭と大規模な
 
空堀や土塁が良く残り圧巻です。 
 
 又、敷地内には 「嵐山史跡の博物館」 ※があり、ここで比企の城郭群の情報収集が可能です。
 
                                    ※夏季を除き入館4時まで、閉館4時半です。
 
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本郭
 この菅谷館(城)の経緯は不明ながら、伝承では平安末から鎌倉初期に活躍した御家人畠山重忠」 の
居館跡と言われています。 
 畠山重忠とは 源平争乱の頃、 一の谷の合戦で源義経が行った奇襲作戦、鵯越えからの坂落しに
際して自らの愛馬を担いで坂を駆け下りたあの人です。
 一方で実際の菅谷館は坂東の御家人の居館とは呼べない巨大な土の城郭です。
 物資の集積に好都合な平地に広がる広大な縄張りと、西郭大手口に隣接する鎌倉道などから菅谷館
近隣に存在する山城群と後方とを繋ぐ 「繋ぎの城」 として機能していたと思われます。
 
 

 
 
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  現地縄張り図に加筆
都幾川方面が南になります。
 城跡と隣接して 「オオムラサキの森」 や 「ホタルの里」 などの公園も併せて整備され大変豊かな森が
残ります。
 博物館付属駐車場は無料ですが5時15分施錠とありました。
 
 
 
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 郭3より西郭方面を撮影。 広いですね・・西郭までは見通せず。
 日差しが強い日で木陰が有難く感じました。 このまま西郭を目指します。
 
 
 
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 西郭との虎口手前に 蔀(シトミ)土塁の一部が残ってます。
蔀土塁は土塁開口部の奥に築かれて、内部を見せない、あるいは射貫されない為に築かれました。
 
 
 
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 西郭から先ほどの虎口を撮影。 奥が3郭です。 木橋が復元されてます。
欄干を含めそこかしこに 「マムシ注意」 の注意書きがあります。 幸い遭遇こそしませんでしたが、どうも下ばかり気になってしまいます。
 
 
 
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木橋から空堀を撮影
土塁・空堀とも見事に残ってます、幅10メートル強、堀底から土塁上まで3~4メートル?位あります。
 
 
 
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 城外側の「オオムラサキの森」 から空堀を挟んで郭西方面を撮影。
堀底が小川になっており往時は水堀として機能していたのかも知れません。
 水がある関係か確かに蝶(種類不明)が舞っておりました。
 
 
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オオムラサキの森を抜けると公道に出ます。
その向かいの森に鎌倉街道の石碑があります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 その石碑です。
鎌倉街道の存在は築城に関して大変重要だったはずです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 城外「オオムラサキの森」から空堀を挟んで郭2の土塁を撮影
堀幅10メートル以上はあります。 郭2の土塁頂部と外部との比高は3メートルは優にあります。
 
 
 
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  城内に戻り 郭3の突き出しから縄張り図の⑨に向かって撮影。 当時も水堀だったのでしょうか。
 かなり澱んでおり籠城の際の飲用には厳しいものがあります。
 堀向こうの虎口左手には矢倉台の土盛りがあり、そこに畠山重忠石造があります。
 
 
 
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 畠山重忠像です。
顔が妙に写実的な表現で、背丈も人のそれに近く  こんな雰囲気の人ってどこかにいそうです。
 
 
 
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郭2です。 現在は広々として草原になってます。
 
 
 
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本郭の土塁張り出し(矢倉跡?)と空堀です。 復元なのでしょうか良く形を残してます。
 
 
 
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本郭内部  
 広々した空間ですが、 南を除き三方を高い土塁に囲まれてる為か解放感はありません。
 
 
 
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同じく本郭内部。 三方を巡る土塁の高さは2間近くあります。 
 
 
 
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郭3の堀です。 左手は城外になります。 こちらも堀底が小川になってます、水質は素晴しい。
 
 
 
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菅谷館を都幾川を挟んで撮影。
 
 
 菅谷館と書きましたが実態は純然たる戦闘施設です、菅谷城です。
築城主に関しては北条氏説や上杉氏説などありまして結論は出ていないようです。