勝沼城は
青梅市中心部にほど近い
光明寺の裏手の小山にあります。 裏手と言うか墓地の真裏です。
東京都の史跡指定を受けてはいますが、城域の殆どが自然林か杉の植林地であり、一部の土塁を除き遺構
は自然に半ば埋もれています。 また 郭の一部が墓地に開発されています。
お寺裏手の山が
勝沼城址になります。 墓地の真ん中を突っ切るのが最短ですが・・・お墓参りの方が多く
気が引けてしまい左手の脇道から奥にアプローチしました。
勝沼城は古くから青梅のある西多摩や入間の山間部を治めた 三田氏 の居城です。 豊富な森林資源をバックに繁栄していたようで、
鎌倉時代の東鏡にもその名前が見られるそうです。
しかし、戦国期に小田原の北条氏が
武蔵国まで膨張するに伴い、 他の
武蔵国の国人衆と同じく三田氏も一旦は北条氏に
服従します。
1560年に越後の
長尾景虎が関東に侵攻し
小田原城を包囲 した際、 三田氏は他の国人衆共々
景虎側に寝返ります。
しかし、
景虎は鎌倉の
鶴岡八幡宮で
関東管領に就任すると国元へ引き上げてしまい、 後ろ盾を失った形の国人衆は再び北条に
服従しましたが、 三田氏は一人反旗を翻し 1562年にはここより山奥にある辛垣城に追い込まれ滅亡してしまいます。
その後、
勝沼城は
北条氏照の家臣 師岡将影が入った為、 別名師岡城と呼ばれますが、1590年には廃城されたようです。
※補足
それにしても良く解らないのは北条氏と三田氏の関係です。 何故、滅亡まで関係がこじれたのか?
平将門を祖に持つ名門三田氏としては新興勢力に過ぎない北条氏に従うのはプライドが許さなかったのか
三田氏の管理する森林資源のうま味が余程大きく、 北条氏としては三田氏を排除したかったのか?
小生にはよく解らないので想像が膨らみます。
先ほどの
光明寺の脇道を歩いて5分程で城への入り口があります。
現在位置は二の丸の上のほうだと思います。 この縄張り図はかなりアバウトに思えますね。
※ 2010,8,31 縄張り図(日本城郭大系5)追加掲載
暫く道なりに歩くもののただの山なのか削平された郭なのか確証が持てない空間が続きました。
ようやく
空堀を発見。 深さも幅もそれほどものではないです。
登って振りかえると土橋と虎口の構造だと確認できます。
かなり広い空間です。 かつて戦国の山林王であった三田氏の城跡は杉の美林に覆われています。
ちなみに
奥多摩は東京都でありながら今でも
林業の盛んな地域です。
南斜面に
空堀と二重土塁の遺構がありました。 杉と下草が繁茂して画像では解りずらいですね。
更に進むと
空堀と虎口が見えます。 なだらかな尾根筋を断ち切って郭を構成しているようです。
本郭らしき広い空間に出ました。ここだけは雑木林が伐採され展望が開けています。
他の郭では確認できなかった土塁の名残もありました。
比高は大した事ないながら本丸からの眺望は抜群でした。 ただ真下に墓石が・・
三の丸の堀下道です。 左手の三の丸は完全に墓地になってます。
本丸の土塁址
特に
城址公園として整備されている訳ではなく、杉の植林が繁殖し遺構は大変解りずらい状態です。
まぁ隠れた遺構を探す楽しみがあります。
城域は30分もあれば見て廻れる程度あり、地形的にも城北側を除き急峻と呼べる箇所はなく、城の防御力は
それほど高い物には思えませんんでした。