それでは早速 荒戸城1の続きと参ります。
と、その前荒戸城の紹介がざっくりしていたので少し解説します。
1で触れたように1578年に築城された荒戸城ですがこの年、越後では内戦とも呼べる「御館の乱」が勃発してます。
詳しくはリンクをウィキペディア飛ばしてあるのでそちらをご覧頂下さい。
事の発端は上杉謙信が1578年に急死した事。
実子を設けていない謙信はその代わり養子を迎えていましたが後継者を正式に決めていなかった事により彼の死後、養子による相続争いが勃発。これが内戦まで拡大・・
彼は上杉と名乗っていますが元は小田原北条氏3代目、北条氏康の実子で両家同盟の際に謙信の養子になった人物。
1578年の時点では実家は既に兄(氏政)の代になっていましたが当然北条氏に軍事援助を要請。
以下戦闘経過は省略します。
再び現地縄張り図に登場してもらいます。
坂虎口を登りきり、加筆2番の本郭土塁の開口部(虎口)に接近して撮影。
ここは90度右折の動線になってますね。
虎口付近からは雄大な山並みが・・山城の為にここまで来ちゃうのは ちょっとおかしい人なんじゃないかと・・自分を疑い始めています。
そうは言っても下界の景色はまさに絶景。
麓にはスキー場とホテルらしき建物のあります。恐らく越後湯沢のスキー場群かと。
さて、土塁線の上に乗り本郭内部を撮影しました。
綺麗に均されてますが広くはありません,戦闘指揮所と言った所ですかね。
また画像正面(3郭)側には土塁を巡らせた痕跡もなし。
加筆3番の櫓台跡から土塁線と本郭全景を撮影。
土塁は肉厚でかなりしっかりと造り込まれてますね。
ただ加筆番号でいうと2番~4番辺りまでしか普請された形跡しかありません、櫓台から本郭にある虎口2か所の防衛に絞った普請でしょうか。
3番の櫓台裏手にある大堀切方面を撮影。
藪が深いという事にして大堀切までは降りてないのが少し心残り。
加筆4番の本郭虎口を降りて3郭に移動します。
ここの虎口も2番の虎口と同じく動線を虎口で90度ターンさせてその後本郭切岸面を這うように造られています。
画像正面の平坦地は3郭。
3郭の加筆5番付近より降りてきた坂虎口を振り返って撮影。
右側から竪堀が動線を抉るように掘り込まれてます。
3郭内部から本郭方面を見上げて撮影。
良く削り込んだ鋭い切岸面。
こちらは3郭にある加筆5番の虎口付近の様子。
この虎口も侵入者に対して悪意の塊のような仕掛けになっています。
これは同じ虎口付近を本郭から見降ろして撮影した所。
同じ画像に現況の地形高低差を加筆。
虎口からの動線が緩やかなスロープで処理されています。
虎口を抜けると両側からよくいらっしゃいましたの大歓迎を受けて・・
今度は攻め手の気持ちになり虎口から3郭方向を撮影した所。
正面に本郭切岸が壁のように立ちはだかります。
虎口から進んだら両脇と正面の3方から攻撃を受けてたちまち殲滅されるでしょう。
先の加筆5番の虎口から外に出て撮影。 虎口は画像右端側。
つまりここでも虎口外側の動線は90度ターンです。
そして土橋を渡らねば虎口には辿り着けません。
同じ画像に動線を加筆。
横腹を晒しながら3郭に沿って進まないと虎口に行けない凝った造り。
同じ虎口出口地点より城外側を撮影。 用意周到にも外側にもう一本空堀が設けてあります。
3郭外側は緩い稜線で地形的な制約が少ない為か、横堀による防禦が施されています。
同じ空堀を横から撮影。 加筆番号6付近。
画像左手が虎口5番。この空堀によって虎口へのアプローチを土橋1本に限定させています。
土橋は小規模な馬出しの役割を果たしていたようにも思えてきます。
加筆番号7付近の様子。 虎口から続く空堀が3郭を取り巻いています。
所要時間 1時間
荒戸城の評価は 5 とさせて下さい。
長い紹介の最後に言うのもなんですが荒戸城の魅力の半分も伝わってないでしょうね。
下手な写真と文章も原因ですが、ここの凄さは実際に行って当時の部将か足軽になった気分で見て体感しなければちょっと伝えるのが難しいです。
それでも荒戸城を一言で表すなら「一分の隙もない造り」というのが適当でしょうか。 特に戦術級の城郭としては傑出した造りである事は疑いようもなく、この城に与えらえた役割の重要性が窺えます。
敵の進撃ルートに築城して寡兵を以て持久戦闘を展開し一定時間拘束する。築城の目的はそんな所だとしても、全身に緊張感を張り巡らせたような荒戸城は、築城候補地の山に登ったら頭にぽっと閃く構造ではないでしょう。
戦国時代を通じて蓄積された築城技術に改めて興味が湧きます。
縄張りのプランニング・設計・施工・運用、それらを統合して築城に取り掛かり短工期で仕上げねばならないという高いハードル。
何といっても間に合わなければ敵に命を奪わるという過酷な現実がある訳ですし。