さてさて前回の深草観音からだいぶ間があきましたが、最後に紹介するは要害山と谷一つ隔てた尾根筋に築城された熊城になります。
文献資料に載せられていない城郭との事で城の歴史的な築城経緯は不明ですが、要害山城に隣接する立地からしてこの2城はセットで機能していたと捉えていいと思います。
城域の規模こそ要害山城には劣りますが、居住性を顧みない戦闘に特化したような緊張感のある縄張りは大変素晴らしいものがあり、要害山城に劣らず素晴らしい遺構を残しております。
熊城に残る石積み遺構跡
熊城への訪城ルートのおさらいです。
熊城は要害山城と谷一つ隔てた痩せ尾根上に築かれた典型的な山城になります。
従って訪城するには尾根下か尾根上どちらかを選択する事になりますが、残念な事にこの尾根には登山道はありません。
麓の尾根入口はちょっと判り難いので、要害山城を見てから尾根を下りつつ熊城を見るのが無難でしょうね。
道もなければ当然、現地に案内板の類もありません。 そんな訳でして今回もまた縄張り図を「甲信越の名城を歩く・山梨編」から借用しております。
訪城ルートは図の右下から左上に向かってます。
要害山城との最大の違いは、城後方の遮断線ですかね、要害山城は堀切に土橋を残してますが、ここ熊城では巨大堀切でスパッと尾根を遮断しております。
また、斜面を畝状竪堀群でぐりぐりとほじくっているのも特徴かと、因みに竪堀群は要害山城の反対側の斜面に特化して堀られていますね。
深草観音へ寄り道をした為、すっかり暗くなってきましたが、ここが登山道から熊城のある尾根への下り口。
目印はこの灰皿の土管。
ここから尾根を下ります。
正式な登山道ではありませんが、それなりに人の往来があるようで尾根筋は「なんとなく道のように」踏み固められています。
途中、1か所だけ尾根が分岐する迷いやすいポイントがあります。
正解はこの岩がある尾根、岩の上に前に歩いた人が石を載せて注意を促してくれてます。
あとはもうずっと尾根筋を辿るだけ。
途中木々の間から僅かに見えた要害山のある尾根。 向こうの尾根の方が常に少しだけ標高が高いんですね。
土管の分岐から15分位ですかね、目の前に巨大な堀切が出現します。
整備されてない堀切って本当に超えるのが大変です、ある意味現役で機能してるバリアですし。
おそるおそる堀底まで降ります。 その先には「なんとなく道」ができてるんですねぇ~ 地元の方が歩いてできたのか・・それても同じようなマニアックな人の踏み分け道かは不明ですが。
堀切を登りきると櫓台のような一段高く盛られた小郭になります。
そこから振り返って堀底を撮影。
小郭東側斜面に残る畝状竪堀群。
小郭は3方を土塁で固めてあります。
土塁と書きましたが当時は石積で固めてあったようです。
櫓台の小郭を下段郭(多分主郭)から撮影。
良好に残る石積み遺構が素晴らしい。
お気に入りなので更に接写します。
更に下段の郭を目指します。 この辺りの虎口もいい味を出してますが写真写りが悪いので省略。
土塁面に残る石積み遺構はかなり広範囲に渡って存在していました。
当時は石積みで全て補強されていたんじゃないですかね。
更に下段の熊城では最大の面積を擁する郭。 とはいってもこの程度の広さしかないです。東側斜面は石積みで補強された土塁を巡らしてあります。
振り返るとこんな感じです。 全体的にコンパクトに造作されている印象。
補強の石積み遺構はここも状態良く残されております。
東側斜面に掘られた畝状竪堀群。 驚く程に深く畝が掘られています、ここも必見ポイントかと。
その先にある巨大堀切・・なにやら石積みらしきものが見えております。
ズームで撮影するとやはり石積みが残っている模様。 この辺りの処理は要害山城と同じですね。堀切にまで石積を施すのは大変珍しいと思います。
更に堀切を過ぎると・・
元の痩せ尾根に戻ります。城域はここまでって事なんでしょうね。
それにして元は険しい地形ですね。城を攻めるにしてもこのルートでしょうが、1列縦隊じゃないと行軍できそうもないですね。
因みにこの辺りから、きちんと道が整備されてきます。
急に眺望がけます。 下の集落と遥か先に見える南アルプスが大変よろしく見えております。
しかし日没が迫っておりのんびり景色を楽しむ余裕もなく先を急ぎます。
眺望ポイントの先は砕石場跡?のような岩だらけの地形。
砕石場を抜けると麓の道に出ます。 画像右手が砕石場方面で、画像の奥が麓の集落方面になります。
林道との分岐点が熊城への麓からの入り口でした。 画像正面奥が砕石場方面になります。
麓から登るルートはちょっと判り難いのでお勧めはしませんが、こちらが側からも行けます。
熊城の評価は 4 とさせて下さい。
要害山城の「ついで」の気分で訪城したのですがむしろこっちの方がお気に入り度は高いですね。
冒頭にも書きましたが城域はコンパクトに纏められますが、畝状竪堀や巨大堀切などの造作を考えるとかなりの土木量を投下して築かれいるのではないですかね?
堀切の法面にまで石積みを施すような丁寧な施工は熊城が長期的に使用された証拠にも思えるのですがどうでしょうか?