訪問 2016年 12月
駐車場 有
案内板 有(解説のみ)
前回の桐原城が11月の訪問で、もう次は年明けて暖かくなってからと決めてはいたのですが・・12月の初頭に偶々時間が出来まして、もう我慢できずに取り合えず出発、幸いまだ降雪もなく無事埴原城の訪問を果たせました。
ちなみに読み方は「はいばら城」です。
埴原城主郭裏側 畝状竪堀群
埴原城は他の城郭よりやや南側に位置しておりまして南側の備えを担っていたんでしょうかね。
城域は他の城郭よりもかなり広く広範囲という印象、よほど設計者は心配性だったのか? 細尾根の先に堀切、さらに先にも堀切・・といった具合でどんどん増やした結果がアメーバのように複数の尾根筋に広がる巨大城郭を産み出したのかもしれません。
それからもう一つ、石積みの比率がちょっと低めでして画像が全体的に地味になっております。 廃城後に崩落したのか元々土の城の傾向が強かったのかは不明です。
例によって他の城郭との位置関係です。
場所は以下のURLを参照して下さい。
埴原城主郭にある城に関する案内を掲載します。
長野県史跡全部まる写しは結構手間ですね・・埴原城を小笠原氏が築城したという確定的な文献資料はないようですね。 まぁでも他の城と造りはよーく似ているので同じ仕様で築城されたのは間違いないでしょいうね。
小笠原氏城跡 埴原城跡
所在地 松本市大字中山
所有者 個人
指定年月日 昭和45年10月22日
指定内容
埴原城は、城に関する文献資料が残っていない為、詳細は定かではないが、元々は、埴原牧を背景として勢力のあった埴原氏が築城したと言われている。
しかし、現在の埴原城の遺構は、厳重な防御施設の跡など、他の小笠原氏城跡との共通性がみられるため、武田氏滅亡後に木曽氏や上杉氏との軍事的緊張下にあった小笠原貞慶(サダヨシ)が改修したものである可能性が高い。
この案内板のある場所が主郭で、東部分と西部分で大きく2つに分けられている。
全体の規模は東西50m×南北13mであり、周辺には石積みを巡らし、背後には高い土塁を築いている。
標高は約1000m地点にあり、麓との標高差は約200mにも及ぶ。
また、麓の御屋敷、梅屋敷と呼ばれる平地から主郭までの道すじは急峻で、途中には堀切、段郭、構等の防御施設が設置され、攻められた際、簡単には主郭に辿りつけない構造になっている。
更に、主郭背後の尾根にも堀切が連続して設けられ、後方からの攻撃にも備えている。
主郭を取り巻く石積みは、平らな石を積み上げただけの構造であり、これは他の小笠原氏城跡で見られるものと同様である。
その技法から、機内から石積み技術が伝わる前のものと考えられる。
県史跡に指定されている小笠原氏城跡のなかでも、埴原城は、全体として遺構の規模も大きく、状態もよく残っている為、注目すべき山城である。
平成22年11月
長野県教育委員会
松本市教育委員会
さて、本題に戻ります。
蓮華寺の前には新しく整備された駐車場が完備されています。
画像にあるポストに埴原城の縄張り図が書かれたパンフレットがあります。
でこれがパンフレットです。 見どころポイントをしっかりおさえてあって大変便利。
尾根先端に古墳があるようなので帰り路に立ち寄ってやろうかと思案しながら埴原城へ向かいます。
パンフレット裏側は精密な縄張り図になっております。
主郭を中心として、4方の尾根筋へ郭と堀切を伸ばしているのが判るかと思います。
主郭背後は竪堀群と堀底道で補完しているようです。
またしても訪城ルートを加筆しました。
広大な城域の為に全てを回りきれたわけではありません。
今回はオレンジ線で辿った部分の紹介で次回は赤線部分になります。
左端のPが蓮華寺さん前の駐車場になり、そこに車を停め徒歩で向かいます。
今回も番号順に紹介します。
1 切岸に刻まれた虎口を登ると御屋敷 と言われる城手前の平坦地に至ります。
虎口付近には石積みが残りますが・・これは当時の代物なのかな?
で、その「伝・御屋敷跡」の様子。
なんという事のない平坦地です、耕作放棄地と言われればそうかな とも思えますし
「伝」という所が何とも・・・
山の入り口には獣除けのフェンスがあります。
ここを抜けるといよいよ埴原城ですが、フェンスの先に足を踏み入れる時はいつも妙に緊張してしまいます。
最近 熊が人里近くに出没なんてニュース報道も多いので・・熊除けの鈴でも付けたら効果があるんですかね?
フェンスを越えると道はなだらかな尾根の脇を進みます。
このなだらかな尾根、幅も広く防衛上ほったらかしは良くないと思えましたが、これと言った防禦を施した様子がないのがちょっと意外でした。
2 の辺り
登城ルートを見下ろすように突き出した稜線から突き出た小郭の様子。
監視場的な物でしょうかね。
郭の際には土塁の痕跡が残されています。 石も多いので当時は石積みがあったのかな?
番号は振ってないですが 先ほどのなだらか尾根を主尾根上から撮影。
若干堀切っぽい地形もありますが・・素人なので判断がつきません。
3 の辺り
大堀切の先に小郭を尾根筋に配置した「段郭」が規則正しく配列されています。
尾根筋に展開する段郭を過ぎると道が二手に分かれます。
今回は右側(城の外部側)を進むことにします。
4 の辺り
支尾根に展開する郭の手前にある巨大な堀切。
堀切はそのまま竪堀に繋がっています。 これがまた巨大。
5 の辺り
2重堀切を手前から撮影。
この辺りの尾根は幅が広い為か厳重に防衛線が築かれています。
6 の辺り
こちらの支尾根にも厳重な堀切で遮断されています。
堀切の先までは行ってませんが、ここも郭として活用されていたような気がします。
お知らせ・・埴原城にはこの自転車禁止の警告があちらこちらに掲げてありました。 それにも関わらず自転車の轍と思しき跡がかなり見受けられました・・ 残念な人はどこにでも出没するもんですね。
7 の辺り
虎口が形成されており足元には石積みか石段の遺構らしき石列が残されています。
7 付近は小郭がひな壇状に続いております。
小さな郭を段々に積み重ねる手法が甚だしく多用されるのが埴原城の特徴かも。
8 の辺り
支尾根根本付近にある水場の石組み。 標識には「伝・お姫様の化粧水」と書かれています・・「伝」って事は姫様の存在も疑わしいと思っていいですよね、籠城中に貴重な水を化粧に使われたら兵士は堪ったものではないでしょう。
ただ湧水だけは確かなようで今でもこの付近だけ足元の土が湿っていました。
水場からルートは折り返し、主郭下段にある帯郭に至ります。
この帯郭には崩落した主郭の石積み石が無数に転がっています。
帯郭から主郭方面を見上げて撮影。
石積みの石が切岸面にも無数に存在しております。
更に帯郭を9の虎口に向かって進みます。
石の数も進むに従って増えてきているようです。
9 の辺り
下段の段々小郭からのルートを扼する虎口の様子。 ちょっと判り難いですが枡型虎口の様相なんですね。
左下から登ってからこの撮影ポイントに向かって90度ルートが折れる様になっています。
虎口は石組み構造だったのか石列が今でも残ります。
桐原城に比べて石積みの崩落が激しく当時の様相の判断が難しいですね。
9の虎口裏側から10に向かっては、尾根筋小郭の段々遺構が続き通常の散策コースではないのですが、敢えてここから登ってみる事にします。
幾段かの小郭を過ぎると現れたのが主郭石積み遺構。
ここも崩落が激しくただ石が積みあがったように見えてしまいます。
埴原城2に続きます。