その前にですね、前回本栖城の歴史について全く触れてませんので、現地案内板を抜粋して紹介します。
本栖城跡まっ、ほぼ記録に残っていない城郭の一つと言えるでしょうね。
烏帽子岳より青木ヶ原樹海にせり出した標高約1056mの城山山頂の主廓を中心に、南北に狭く細長い稜線の尾根を数箇所を切って竪堀を設け、自然の地形を利用して廓を築き、防備を固めた中世山城の形態が残っている。
竪堀には、地山の粘板岩を砕いて設けられたものもある。
廓の周囲には麓の樹海の富士山の溶岩によって石垣が築かれている。
「甲斐国志」によると、源吉春という人物の記述があり、天文・永禄年間の武田氏文書に「本栖在城」と見えることから、この城に詰めていた国境警備の為の武士と考えられる。
天正10年(1582)に渡辺因獄佑がこの城にいたともある。
伝承では、のろし台と言われているが、中世・戦国時代の軍事上重要な中道往還が山裾を通過しており、監視の役目を果たした砦であった事が地勢や周囲の遺構、土塁、石塁からも推定される。
武田の街道警備の任を地味に果たしていた城郭、華々しい合戦談とは無縁な世界と言えるでしょう。
本栖城の縄張りはオーソドックスな直線連廓式、尾根筋を幾重にも堀切で断ち切って防禦するという造作です。
ただ・・石積みへの手間暇は相当なもんでしたね。
堀切を過ぎるとこのような元の地形+石積みのような造作が続きます。
ほぼ岩ですが、土塁による遮断線の役割を果たしていたように思えます。
脇を固めるように石積みの跡がびっしりと残されています。
もっと近づいて撮影したかったのですが・・足元が悪くこれが限界。
他の場所でアップを撮影。
都留市の勝山城の石垣も同じ溶岩でしたが、石の大きさが違いますね。
本栖城の主廓に到着。
まともに広い空間はここ位ですかね、案内板が設置されています。
案内板記載の付近案内図。
旧 中道往還と本栖城の位置関係に注目です。
主廓は景色が良いと聞いていたのですが、樹木が視界を遮り本栖湖方面が僅かに見えるだけ。
主廓を後にして「のろし台」とやらに向かいます。
主廓の後ろは一段下がった廓が控えています。
一段下の廓から主廓を見上げて撮影。
主廓裏側、一見すると土の城に見えるのですが良くみると広範囲に渡って石積みの跡が残されています。
恐らく当時の主廓は総石積み造りだったのでは?
主廓脇にある石積み。
主廓裏側の石積み。
これらの石積みは城の防禦力の為というよりも、法面の崩落防止用でしょうね。
最後にもう一枚載せます。
400年以上も よく崩れずに残っていたものです。
こちらは 「のろし台」跡です。
看板が酷い事になっていますが私じゃないです。
内側は石積みをセットバックしながら高さを稼いでいます。
ここの石積みの残存具合が非常に良好で素晴らしいの一言。
でも、これ本当に「のろし台」ですかね?
この画像の左側(城外側)は深い堀切で、その手前に扇型に石積みを積み上げています。
のろしも焚けるとは思いますが・・堀切に対しての射撃陣地を形成しているようにしか見えません。
のろし台から堀切側に身を乗り出して撮影、ちょっと危険ですがこの先の堀切はとんでもなく深く切り立っており断崖と言ってもいいほど。
のろし台の左脇から堀底に降りる道が整備されています。
これは堀底から「のろし台」を見上げて撮影。
岩盤むき出しの堀底ですが・・これは自然地形を利用したものか、それとも岩盤を砕いて形成したものか。
堀底から「のろし台」の対岸に登れるようにロープが設置されていますので登ってみることにします。
ロープを結えている木が思ったより細かった為撮影。
この木で果たしてこの先耐えられるのか少し疑問に思えましたが。
この先に溶岩の石積みはありませんでしたが、堀切と思しき地形がありましたので掲載します。
浅い堀切状地形の先に更に岩盤に再びロープが垂らされています。
ロープを登りきると更にその先の尾根筋に断崖状の地形がありました。
人為的な加工は確認できませんでしたが、堀切として用いられていたのではないでしょうかね。
時間が遅くなってきたので、ここで引き返しましたが、まだこの先にも何かあったのかも知れません。
本栖城3に続きます。