膳城
訪問 2015年 2月
駐車場 有
案内板 有(本廓)
前回でも軽く触れましたが今年の群馬のお城紹介はこの「膳城」が最後になると思います。
実は、訪問しながらもブログにアップしてないお城があと15か所位残っていまして、そのうち大田金山城を除けば全て他県。
このブログは基本的に訪問順にアップしていますのでこれから訪問する城のアップは本当に遥か先になります。
膳城 搦め手側 空堀
場所は この辺りです。 道路にもかなり大きな案内が出ているので迷う事はないでしょう。
が、車停める場所がちょっと迷いました。
膳城北側に資料館と展示室が併設されているのでが・・両方共閉まっている雰囲気で車停められそうもないなぁと・・ この時は結局路肩に停めてしまったのですが 現在はどうなんでしょうかね?
本廓内にある縄張り図加筆の上掲載します。
詳細な縄張り図なのですが、それが災いして却って城の構造を理解しがたい悲しい状況にあります。
現在の膳城はオレンジ線の車道や宅地化等によってかなり縄張り図とは表情を変えてしまって、現状と縄張り図の構造を頭の中で一致させるのに苦心しました。
ちなみに 茶色の枠内のみが膳城として整備されている区域になります。
さっきのオレンジの道沿いに本廓の空堀と土塁が隣接しています。
ここから訪城しました。
その前に 現地案内板の膳城の紹介を掲載します。
膳城跡は、兎川と湧水による湿潤な谷地の間の丘陵性台地の先端部に位置する。
南北約550m、東西約300mほどの範囲の中に濠や土塁を巡らし、本丸の他、数区画からなる廓を形成している。
この城の築城年代は明らかではないが、鎌倉時代の文書に既に「膳」氏の名が見える。
しかし、この膳城に居城していたかについては明らかではない。
その後、室町時代から戦国時代にかけての文書にも「膳」氏は度々登場する。
戦国時代には、関東地方の覇権をめぐる北条、上杉、武田の戦記物に度々「膳」の名が現れる。
現在見ることのできる膳城の姿が形成されたのは、この戦国時代末期と考えられる。
特に天正8年(1580)武田勝頼による東上州侵攻の際の、膳城をめぐる攻城戦は 「膳城素肌ぜめ」 として著名である。
膳城はこの戦いの後、廃城となったと考えられる。本丸周辺の濠、土塁等は当時の姿を良く残している。
素肌と言ってもさすがに スッポンポンで城攻めした訳ではなく、甲冑を着込んでいない状態を指しているようです。
これ、当時の人の甲冑に対する考え方がちょっと垣間見れませんか?
甲冑を着込まないで戦場に挑むのは素肌を曝しているのと同じようなものだと。
この時は、城方の挑発行為に反応して準備もないまま城まで付け入って落城させたようです。
と その前に本廓から道路挟んだ反対側に残る遺構を見学しましょう。
この空き地奥の竹藪に空堀が残されています。
こんなにはっきりと残されています。
この空き地と民家を含む辺りは馬出し廓の跡になると思われます。
空堀奥の民家のある土地と廓内は比高差があります。
外側を見学したので 膳城跡の整備部分を見学します。
土塁面の階段を上ると膳城本廓になります。
城の立地は、先の大胡城・天幕城と良く似ているのですが、膳城の本廓は周囲の廓との比高差が無い為、眺めは決して良くはありません。
本廓北側の空堀・・・なんでしょうね、この堀底の遊歩道は、凄く違和感があります。
ネットでもマニアには大層評判がよろしくない。
個人的には下草の伐採程度でいいと思うのですがね、それでも歩道整備が必要ならばウッドチップを敷き積めるとか、景観と利便性の妥協点を探っても良かったのではないかと感じました。
反対側から撮影。 途中で歩道が終わってますね。
本廓南側の堀底の様子。 車道から例の遊歩道が延びているのですが早くも落ち葉に埋没しかけています。
こちらは搦め手側の空堀です。 こっちはいいですよ。
大きくて深くて、そして藪だらけ(笑)
膳城の評価は 2,5 とさせて下さい。
保全整備されている範囲は膳城の中心部のみというのが非常に残念ではありますが、これだけでも残っていなければ石碑のみが建つ城跡になっていたかもと考えれば、これはこれで良いのでしょうね。
短時間の訪城の為、保全範囲周辺の遺構探索がほぼできておりません。
いずれ再訪したい城跡の一つとなりました。