ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

津久井城 (神奈川県 相模原市) 1

 
訪問 2012年 4月
 
 2年半前の訪問記録をアップします。 掲載が延び延びになっていたのには特に理由はありません。 記事が頭の中でまとまらず面倒になっていただけです。
 いい加減記事にしないと記憶が飛んでしまいそうなので一念発起?して今回掲載します。
 
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津久井城 山頂部本廓土塁
 
 どうでもいい事かもしれませんが、津久井城の辺りの山間部が相模原市というのには若干違和感がありますね、やはり旧名である津久井町がしっくり来ます。
 
 津久井城は小田原の後北条氏の有力支城として一般的には知られています。 東西に稜線を延ばした独立峰の山頂尾根筋の廓群と山麓に広がる根小屋部に分かれて遺構が残ります。 
 目立つ独立峰なので近くに行けば あぁ・・あの山だね とすぐに解ります。
 
  津久井城の歴史に関して現地案内板によると、
鎌倉時代三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦氏の一族、津久井氏によると伝えられています。
中略
当時の津久井城は甲斐国境に近く、領国経営上重要視されており、津久井城(城主内藤氏)は有力支城の一つとして重要な役割を果たしていました。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めの際、津久井城は徳川勢の本多忠勝、平岩親石ら12,000の軍勢に攻められ6月25日に開城しました・・ 以下略
 因みにウィキペディアによると、この後北条氏にとって大切な津久井城を預かる内藤氏及び津久井衆は「敵半地」と呼ばれ、半分は敵対関係にあった武田方の郡内地方を納める小山田氏の郡内衆に属していたそうです。
  
 確か年貢も半々だったみたいですね。 そんな曖昧な立ち位置が何故許されたかが良く分からないのですが、当時の戦国大名間の勢力図には今日我々が考えるような所謂国境とは違った感覚だったのかもしれませんね。 スパッと線で区分け出来ないグレーゾーンが多く存在したのでしょうかね。
 

 

 

 

 

 津久井城は津久井湖の湖畔に位置しますが、ダム湖である津久井湖は勿論戦国時代にはある筈もなく、湖の存在により当時の印象とは随分違っているのかも知れません。

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現地縄張り図を掲載します。
この手の詳細な案内が充実されているのが津久井城整備の特徴の一つと言えると思います。 山頂から山麓まで下る竪堀まで一目で解りますね。
 
 訪問に関してはダム湖畔の国道413号からも登れますが、南の根小屋部側が公園として整備され駐車場も完備しています。 県道65号線沿いで案内も出ています。
 
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南麓側から見上げた津久井城山頂部です。 撮影地点は公園駐車場。
 平野の桜は散ってしまった頃でしたが山頂ではまだ咲いていそうです。
 
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根小屋部の様子。  公園整備化が著しい区画もありこの辺りは山城の雰囲気はありません。
 
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根小屋地区みちあんないです。  
 
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広大な屋敷跡などが広がります。
 
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木道の整備が・・・そこまでしなくてもいいのにと言ったレベルで整備されてます。 バリアフリー化の一貫ですかね。
 
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段々畑状に斜面が整地されています。

 
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この辺りから 山頂部へ登る山道になります。
 
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途中で男坂と・女坂に道は分かれます。 どちらの道を選んでもそれ程きつい道のりではありませんが。
 
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男坂は尾根筋に向かって一直線に伸びます。
 
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尾根筋が見えて来ました。 どうやら堀切の堀底の様です。
 
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到達したのは ここの堀切です。  左手が男坂
 
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 山頂部の現地縄張り図を掲載します。
 現在位置は 飯縄廓と太鼓廓の間にある堀切です。
 
本廓を後回しにして飯縄廓方面に向かいます。
 
津久井城2に続きます。