武田八幡神社
訪問 2014年 5月
久々のお城ネタのアップをします。
昨年・一昨年の訪問ネタもあるのですが、何となく面倒になってほったらかしてます。
そんな訳でして、今回は過去の訪問記録を飛ばして、拙ブログとしは珍しく最新ネタの掲載です。
白山城腰廓
このネタは2回に分けて掲載します。
訪問目的地は、小ぶりな城郭ながら技巧的な縄張りで評価の高い山城「白山城」ですが、今回は麓の武田八幡神社と迷いやすかった白山城までのルートの紹介をします。
場所はこんな感じです。(適当な説明ですが・・)
白山城は、地図で言うと神山町鍋山と地名が書かれた辺りに位置します。
神社正面の様子です。 ちょっとばかり露出が高く石垣が白く写っています。
両脇に控える巨木・・これは杉ですかね?
足元の石垣も由緒あるものだそうです。
鳥居の裏から参道を撮影。
参道は緩い下り勾配が釜無川河岸まで続き、対岸の七里岩台地も一望出来ます。
七里岩台地を拡大撮影。
台地上に築かれた新府城はもうちょっと左手にある筈ですが、木が目隠しして確認できませんでした。
レンズ内にごみが入り込み、黒点が写りこんでしまっています。 なんか邪魔ですね。
唐突ですが 神社の紹介を少しばかり
武田八幡神社本殿の解説文より抜粋
武田八幡神社はもと武田八幡宮と呼ばれた。 社記によれば、往古この地に武田王をまつる宮社があった所へ、弘仁13年(822)年2月勅命により、九州宇佐八幡宮を勧請して王の宮社に合祀し、武田八幡宮を称したのが起こりで、のち貞観年間(895~876)に京都石清水八幡宮を社中に勧請した。
新羅三郎義光いらい甲斐源氏の尊崇が厚かったが、事に義光の曾孫信義は武田の郷に居館を定めて武田の太郎と名乗り、当社を氏神とあがめて崇敬の限りを尽くした。
のち300余年を経て天文10(1541)年、武田晴信が甲斐守護になると、当社本殿の造営に着手し、同年12月23日に早くも落成した。
以下略
舞台を通り抜け更に登ります。
ブログで交流させて頂いている にすけ さんも触れていましたが、高低差のある平場を複数段設けて神社は造作されており、城郭もしくは何らかの防衛機能を担っていたような雰囲気を感じました。
屋根から こちらを睨みつける 「これ」 実物を見ると余計に気になりますね。
角が生えてるので鬼でしょうかね。
武田八幡神社を後にして、社殿脇から為朝神社へ向かいます。
山道に立ち塞がる熊よけのゲート。
施錠はされていませんので、この先は「自己責任」っという事でしょうかね。
鈴とかラジオをつけるように書かれています。
フェンス横に掲示されていた配置図。
狼煙台が山頂にあったようですね。
ここは無事、フェンス脇をすり抜ける事が出来ました。八幡神社は画像奥になります
ほどなく現れる為朝神社。 周囲から一段高くなっており城郭遺構を彷彿させる地形でした。
為朝神社社殿です。
為朝神社は鎮西八郎源為朝を祀った神社で、元歴元年甲辰年(西暦何年?)武田太郎信義が社殿を建立し、為朝の画像と大長刀を納め神霊を祀った・・以下略
ここから、白山城へのアプローチとなります。
為朝神社を過ぎると道は枯沢の手前でフェンスに阻まれてしまいます。
枯沢にぶつかると左右に熊よけのゲートがあります。左手のゲートを開けていよいよ熊さんのテリトリーに・・・
沢沿いの道を数十メートル進むと 小さな橋が架かってますのでこれを渡ります。
橋を渡ると数件の別荘がありますが、そのまま道を進みます。
別荘地を抜けると両側を尾根に挟まれた谷地になります。 緩い登り勾配を進む事100メートル程で上の画像の様な道と枯沢が分岐する地点に差し掛かります。
その辺りで左手の尾根を見上げると 何の案内もない細道が尾根筋に向かって伸びています。
ここから尾根道を登る事10分位で白山城に辿り着けます・・・が、これが非常に分りにくい。
足元に神社への案内板が転がっていたら、左手を注意してみて下さい(笑) これが分岐点の目印になっていました(今のところは・・)
2に続きます。