ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

河村城 (神奈川県 山北町)

河村城
 
訪問 2013年 7月
 
 またしても 季節度外視して、よりによって真夏の訪城の模様をアップします。
栃木ネタが尽きましたので、神奈川から静岡のお城を次々と? 掲載したいと思います。
 
イメージ 1
河村城に設置された 間伐材を利用したオブジェ 
上の画像はお城とは直接関係ありません。後で少し触れます。
 
 河村城は山北町役場のある市街地に隣接した独立丘陵に築かれた山城です。
 山間部を縫う街道が開けた平地に出る直前にある独立丘陵・・なにやら津久井城と立地が似ている気がしてならないのですが・・・ 
 
ではさっそく河村城の歴史を少しばかり・・・現地案内板抜粋転載
 河村城が位置するこの地は、城山と呼ばれ、北を旧皆瀬川、南を酒匂川によって周辺山地と分断された自然の要害と言うべき地形となっている。
中略
酒匂川との比高は約130メートルあり、独立丘陵状をなしている。
河村城の周辺は甲相駿の3国国境が交錯することから数多くの城塞群が築かれている -中略ー 中でも河村城は関東平野へ至る交通の要衝に位置している。

城の歴史は古く平安末期、秀郷流藤原氏の一族波多野遠義の二男 河村秀高によって築かれたと伝えられる。
-かなり省略ー
南原の戦いの後、河村城は畠山国清関東管領上杉憲実を経て大森氏の持城となったと考えられ、その後相模に進出して来た小田原北条氏に受け継がれていく。
北条氏は武田氏との攻防から前記の支城と共に重視し、特に元亀年間には河村城の補強を行った事が 「相州古文書」 に見られる。
その後、天正18年(1590年)に小田原征伐で落城、廃城になったと考えられるが、これらを伝える資料は残っていない。
以下全て省略
 

 

 

 

 

 城までのアクセスが少々分かりにくいので説明します。
 城直下を国道246号が抜けてますが、国道からは辿り着けません。
 
 山北町役場脇の道を抜けて西へ進み、山北駅前(南口側)を通り過ぎると盛扇寺への案内がある丁道路があります。
 こを左折し、246の高架をくぐりお寺の山門前を左手に折れて道なりに山に向かって進むと、公衆トイレの脇で車道が終わり(車はトイレ脇の路肩に停められます) そこから、山道を少し登ると城跡に辿り着きます。
 山道は整備されており夏場でも問題なく歩けます。
                                     
イメージ 2
 この辺りに車を停めました
 
 左手の建物が公衆トイレ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
        
イメージ 3このような
山道を登る事15分位
 で城跡に辿り着きます。
 
 右手の石垣は城とは
無関係の様子。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4
ここで 現地案内板を掲載。 画像上が南にあたります。
 現在位置とは 先ほどのトイレのある場所を示しています。
歴史公園と名乗るだけあって、城をコンセプトとした整備は一応なされています。
 
 
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汗をかきかき登る事15分程で なにやら堀切らし遺構が現れました。
 
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早速の巨大堀切に興奮して撮影。
堀切手前の坂道を登り(縄張り図茶臼廓) 堀切越しに小廓と奥に見える本廓の様子です。
 有難い事に、夏場にも関わらずしっかりと雑草は刈り取られてきちんと整備されています。
 
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この辺りは、整備の際にかなり地形に手を加えている様で、その為、当時のままという訳ではないのですが、この堀底に再現された畝堀等は、中世城郭を再現するという「こだわり」を強く感じてしまいます。
 
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畝の水溜まり・・・ではなく 「お姫井戸」という伝承の再現だそうです。
 古い絵図にはこの畝堀の辺りに井戸の記載があり、河村城落城の折、姫が井戸に身を投げたという逸話があるそうです。
 ただ・・発掘調査の結果は、畝堀はあったが井戸はなかったと判明しているそうですが・・なんだか。
 
イメージ 9
 
 
堀切の反対側にあった
 水たまり。
 ひょっとしてこっちの事だったのか。
 
 堀切のびっくりする
位の深さもわかりますか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10堀切を堪能したので
 本廓に向けて移動します
 
右手が本廓にあたります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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本廓は広い芝生広場になっていました。
 冒頭で抜粋掲載した河村城の歴史は足元のプレートに書かれていたもの。
 
 
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本廓先端ある巨大な石碑とお社
 
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お社の裏手から撮影した廓群の様子。
 手前堀切を挟んで向こう側が小廓、その又向こうの堀切を挟んだ先が茶臼廓です
小廓等 廓周囲に土塁を巡らしていた形跡は確認出来ませんでした。
 ただ 元々なかったのか、整備事業で漏れてしまったのかまでは解りません。
 
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本廓を後にして、水廓から西廓方面を目指します。
 右手藪々が水廓、 この辺りは整備から漏れており、樹木に覆われています。
 
 
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少し見えた酒匂川
 
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植林帯のそこかしこに置かれた オブジェ
 上の解説によると、 地元の間伐材を利用したチェーンソーアートだそうです。
 ASHIGARA  Wood-ART事業 
国産材を応援する気持ちで少し宣伝してみました。
 
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西廓の堀切跡。 
 整備された箇所と比べると随分なだらかな堀切。
ここも、当時はグッと深いV字だったんでしょうか。
 
 
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西廓内の様子は、藪が酷くて良く解りませんでした。

 標柱の脇にもオブジェがあったりします。
 
 
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再び本廓に戻り、堀切を挟んだ蔵廓を目指します。
 
 
イメージ 19
ここで 別の縄張り図を掲載
 この様な案内が充実しているのも河村城のいい所。
 
 
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蔵廓内部は城らしさのない整備。
 
イメージ 22
その先の近藤廓を目指します・・・が 真新しい土橋の整備が やりすぎ感溢れすぎて・・何と言ってらよいのやら。
 
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やりすぎ土橋から堀切りを撮影。
 この堀切の規模が尋常ではなく、本当に当時の寸法を再現したのか それとも重機の機械力に任せて掘って掘ってまた掘って・・の結果なのか。
 
イメージ 24
そして橋の先で唐突に終わを告げる河村城整備事業。
 錆びたフェンスが物悲しい・・ 
 左手の土盛りは矢倉跡でも土塁でもなく残土置き場です。
 当時の遺構が分らないのは勿論、整備による遺構の破壊が心配になってきます。
 
 
イメージ 25
尚も進むと当時の地形らしき段差が辛うじて残されていました。
 大庭廓と大庭廓張り出しとの境界と思われます。
 
 
イメージ 26
大庭廓張り出しから先の様子。
 車道周囲は堀切跡と思われる窪んだ地形でした。
 

 
河村城の評価は 3 とさせて下さい
 
 夏場でもきちんと刈られた下草。 親切な解説に綺麗なトイレ完備と維持整備に関しては頭の下がる思いです。
 勿論圧倒的な規模を誇る堀切、こだわりの畝堀等見どころも満載。
 ですが、未整備区画の今後が心配で評価は少し辛めにさせて貰いました。
 個人的には やりすぎ土橋のような整備は遺構の破壊にし思えないのです・・